人は正直すぎてはいけないのよ~シロッコは、うつくしい~
Zガンダムを観てると、「これって、ジョン・レノンのことが意識されてるのかな???」って感じるところがちょこちょこあって。
(たんに、ジョン好きのわたしの脳内がお花畑なだけかもしれません……m(_ _;)m)
ジョン・レノンが、突然の銃撃というかたちで命を奪われてしまったのは、34年前。1980年12月8日のこと。ジョンが生きていれば、今年74歳。
Wikipedia情報によると、ファーストガンダムの放送期間が1979年4月~1980年1月となっているので、ファースト放映期間中の出来事だったということになるのかな……。
(これまたWiki情報によると…)Zはファーストの5年後、1985年3月~1986年2月にかけて放映されたとのこと。
わたしは(年齢的に)、あの当時の状況や社会の空気をリアルタイムで体感できていないから正確にはわからないけど……ジョン・レノンが殺された事件は社会的にもかなり大きな衝撃だったということは、いろんな資料で見聞きするところで……Zガンダム制作期間、1980年代前半あたりの時期は、事件の記憶も未だ生々しく、事件の状況(全貌、とはいえないけど…)が次第に明らかになっていく期間とも重なっていたのかな???とか、想像する。
(当時の空気をリアルタイムでご存じの方、あるいは、富野監督がジョン・レノンについて言及している発言などをご存じの方、いらっしゃいましたらぜひご教示ください。)
あの事件は、とくに芸術家やクリエイターの心を深く揺さぶる類の事件だったのだろうな……という気も、すごくするし。。。
「人は、正直すぎてはいけない」なんていうセリフを聴くと、とくにね……なんか、そう感じずにはいられないっていうか。。。
わたしはジョン・レノン大好きなのだけど、彼の表現については、ファンとして複雑な感情をもっている感じで。。。
その表現行為を賞賛しきってしまうことへの葛藤っていうか……、矛盾っていうか……
彼の自己表現を愛しつつ(その恩恵にあずかりつつ)、同時に、「他ならぬその表現によって彼は命を縮めたのではないか?」という思いも、反面にもっていて……
ジョンやオノ・ヨーコ氏が軋轢を恐れずに表現してくれたからこそ、今、わたしなんかがこうして彼らの言葉や作品に支えられたり勇気づけられたりしてるわけだけれども。
ただ、それがジョンやオノ氏自身の人生にとってどうだったのか?となると、そこは、一方的な鑑賞者目線でアレコレいえない部分だと思う。
当時のジョンの歩みをものすごくざっくりまとめると……
- 1960年代後半にヨーコ氏と出会い、1968年に当時の妻と離婚、その翌年にヨーコ氏と結婚。ヨーコ氏とともに「ベッド・イン」等の平和活動・反戦運動を行なう。
- 1970年にビートルズが解散。自身と向き合うような活動や作品づくり等に取り組み、リリース。ソロ活動と並行して政治活動を行なうが、(おそらくそこに起因した)さまざまな困難・軋轢に直面。1973年からヨーコ氏と別居。
- その後、ヨーコ氏のもとに戻り、1975年にはヨーコ氏との間に子どもが誕生、音楽活動を休止して主夫(ハウス・ハズバンド)生活に入る。
- 1980年、音楽活動を再開した直後、事件により殺害される
………という感じなのだけど。
ジョン自身、平和運動や政治活動での経験(とその挫折?)をふまえて、次のような発言もしてる。
ジョン■自分たちをソフトに表現することを覚えたんだ。こんなのはだめだ。「ハーイ! ジョンとヨーコだ、僕らは裸で旗を掲げてベッドに入っている。叫び続けるヨーコに、バックでギターをかき鳴らすジョンだ」なんてね。裏口からそっと入るのがいい。
ヨーコ●昔は私もこう考えた。私のこの曲は、いい曲だからシングル盤のA面に入れるべきだって。でも、近ごろは賢くなったの。
デービッド・シェフ著『ジョンとヨーコ ラストインタビュー』より
語り口は若干自嘲的だけど……「ベッド・イン」等の平和運動自体は、世間でいわれているほど”おめでたい”ものではなくて、それはそれでかなりしたたかに練られた試みだったと、個人的には感じてるんだけども……
ジョンは若くして栄光の裏表をみてきたひとだろうし。ヨーコ氏はヨーコ氏で、泣く子も黙る財閥のお嬢様だし。
ふたりは、清濁併せ呑んだプロモーション的手法で、ワロエナイ現実の上にファンタジーを描いたんだと思う。
ただ……ヨーコ氏と出会い、その後、ビートルズの解散に至る過程に言及して、ジョンは次のような発言もしてる。
ジョン■そのころから、いろいろなことが変わり始めたんだ。僕はビートルズから自分を解放し始め、みんなはイライラし始めた。
(中略)
インタビュアー●周囲の人のそのような態度も嫉妬だと思いますか。ジョン■一種の嫉妬だな。恋をしている人間が許せないんだ、絶対にね。自分たちがいる穴の中に引きずりおろそうとするのさ。
インタビュアー●恋愛の甘い気分はまわりの人たちにも移るのではありませんか。
ジョン■そうだね。(中略)もちろん、人はふたりに引きつけられる。ふたりのエネルギーが肯定的で強いからだ――最も強い形なんだ。でもエネルギーは、エネルギーを吸い取ってしまう連中をも引きつける。友だちのふりをしてやってくるか、敵としてやってくるかは問題じゃない。だから、(「ウォッチング・ザ・ホイールズ」の中で)「友だちでもなく、敵でもなく」という歌詞が生まれたんだ。それは、いろいろと不思議な形で現れて、エネルギーをみんな吸い取ってしまう。そういうことなんだ。だから、恋の気持ちを保つのは大変だよ。
デービッド・シェフ著『ジョンとヨーコ ラストインタビュー』より
ここでジョンが言ってること、Zの世界に相通じるものを感じるな……って。
シロッコとサラの絆を目の当たりにした際の、そして、レコアさんがシロッコの元へ飛び込んでいった際の、アーガマクルー達の反応とか、モロにそんな感じだよな……って。
(とくに、カツ、カミーユ君、エマさんあたり)
ちなみに(ちなみにちなみに…)、「カミーユ」というのは、オーギュスト・ロダン(1840-1917/彫刻家)と関係の深いカミーユ・クローデル(1864-1943/彫刻家)がその名の由来だと聞いて、カミーユ・クローデルの映画をふたつ観てみた。
で、いろいろ思うところがあったので、それについてはまたあらためて記事にするかも(^-^)
映画といえば……ヒチコックの「鳥」っていう映画、あの映画で”リアル烏合の衆”みたいな不気味な鳥の集団の襲撃を引き起こしてるのもさ、あれ、愛だよね?? ラブバード。
(よく知りもしないでいいかげんなこといってると映画好きの方に怒られちゃいそうだけど……汗 お詳しい方、ツッコミお願いいたします・汗)
話を「人は、正直すぎてはいけない」に戻すと……
確かに、人は正直すぎてはいけないと思うのだけど……
でもそれって、ほんとうに「うつくしいこと」なんだよね……まさに。
(サラのセリフ、サラの表現はいつも過不足がなくて、しみじみ感心させられる。シロッコへの報告の言葉のひとつひとつをとっても、カミーユ君への「他人のあなたにわかることではないわ」みたいな返しひとつをとっても……ほんと、余すところなく、的確・簡潔…)
ジョンはうつくしい。ジョンの表現しているものは、うつくしい。
そして、シロッコもまた、うつくしい。
あの場面のシロッコは、ほんとうに、ほんとうに、うつくしいよ。
これは、ほんとうにそうだよ。
まさに「うつくしい」なんだよね……これ以上に適切な表現はないと思う。
ちなみに(ちなみに、が多くてすみません…)、シロッコは自らのことを「私は、歴史の立会人にすぎん」と称し、同時に、「世界をその手に欲しがっているシャアと自分は違う」みたいなこと主張してたけど……
ジョン・レノンも同様に(?)、「Waching the wheels」という曲のなかで、自らのことを
I'm just sitting here watching the wheels go round and round
I really love to watch them roll
No longer riding on the merry-go-round
と、「傍観者」みたいな存在として表現してる。
同曲の冒頭に、
People say I'm crazy doing what I'm doing
Well they give me all kinds of warnings to save me from ruin
ってあるけど、個人的には……むしろ crazy な世界のなかで、そこにぽっかりと灯る光のように、ジョンとヨーコのほうがまともにみえるけどな……。
でもまあ、それは、個々人の感覚だよね。。。
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