まあ、ひとことでいえば『身の程を知る』ってことかなぁ…

今回、かなり踏み込んだこと書きますです。。。

何回もくどくてゴメンm(_ _;)mだけど、最初にいつもの前置きを……


センシティブな話題のときはいつも強調してるんだけど、わたしはここで評論活動みたいなことをやるつもりはまったくない。

決して、誰かが大事にしているものをいたずらに傷つけたいわけじゃないし、ケチをつけたいわけでもないし、あてつけを言いたいわけでもない。ましてや、「どちらの考えのほうが正しく、素晴らしいか」みたいなことを議論したいわけでもない。


ただ、ひとえに。ひとえに、わたしを人生の伴侶候補としてご検討くださる方、そういう方を見つけ、その方と理解を深め合いたい。本当に、ただ、それだけ。

「人生の伴侶を見つけたい!」という目的がなければ、こんなこと、黙ってる。当然、社会生活のなかでは黙ってる。そういう類の話。


いつも前置き長くてごめんちょm(_ _;)m


しかも、今回は以前にも書いたことと重複する箇所がいくつかあります。

くどいかもしれませんが、共通認識の確認、ということで、ササッと読み流していただければと思いますm(_ _)m


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ひとつ、ジョン・レノンの背中から(勝手に)学んだことがある。

それは、(わたしの人生において)【宗教と政治にだけは、絶対にかかわりを持たない】こと。

ジョン・レノンは、宗教と政治にかかわって、結構しんどい目に遭ってる。


もちろんね、それはジョンにとってベストな選択だったのかもしれない。

それは、ジョン自身にしかわからないし、ジョン自身にしか決められないこと。

QOL、クオリティ・オブ・ライフって言葉あるけど。

人生を測る尺度って、長さだけじゃないよね。


もちろん、若くして病気や事故で無念のうちに亡くなるとか、他人の暴力によって不当に命を奪われてしまうとか、その一点に関していえば、間違いなく「悲劇」だけれども。

たとえば27年なら27年で、単純に(終わり方の問題は抜きにして)、そのひとの27年間の人生が、そのひとにとってどれだけ良いものだったか、ということを考えてみると、それってやっぱ長さだけの問題じゃないよな……って。


自分のなかで「良く」生きた結果が27年の生涯なら、それはそれでいいんじゃないかなって。

長けりゃいいってもんじゃないだろうし。

「生きてる=死んでない」状態で87年の生涯を送るのと、どちらがいいのかっていうと、それは、単純に答え出ないよなあ……って。


正直、ジョン・レノンファンのエゴとしては、「平身低頭にでも平穏無事にでもなんとか生き延びて、50歳のジョン、60歳のジョン、70歳のジョン……の歌を聴かせてほしかった、その、生きる背中をみせてほしかった」と思わずにはいられないけれども。。。


でも……幼い頃から親と離れて暮らし、ビートルズの成功であらゆるものを手中におさめながら「Help!」と歌ってたジョンが、それまでの人生の何もかもを捨ててしまえるほどの「愛」をみつけることができた……

その「愛」のために生きて、ジョン自身変わっていき、そのなかで、新たに手にした「強さ」や「よころび」にあふれた曲をたくさん生み出して……


その人生の結果が40年の生涯であったのなら、それは、ファンとしても、ちゃんと受け入れたいって思う。

(※ジョンの命を奪った暴力は絶対に許容できないけれども。※)

 Help! I need somebody
 Help! Not just anybody
 Help! You know I need someone Help!

 When I was younger so much younger than today

 I never needed anybody's help in any way

 But now these daya are gone

 I'm not so self assured

 Now I find I've changed my mind

 I've opened up the doors


 The Beatles「Help!」

 

 And woman I will try to express
 My inner feelings and thankfulness
 For showing me the meaning of success


 John Lennon 「Woman」


政治と宗教。ビジネスなんかの状況によってはどうしても無縁ではいられない……みたいな現実もあるとは思う。


企業家・起業家のなかには、「(ある種の)ガラスの天井を破るには(そういう意味での)力が必要だ」という必然性を痛感なさって(ある意味必要に迫られて)、そちら方面に進出される方もいらっしゃるのだと思う。

(もちろん、もともと政治に野心をもっていた、という方もおられるのだろうけれども。)


もちろん、それはそれで、それぞれの選択なのだと思うし、個々のケースでベストな判断ってあると思う。


ただ、わたしの場合、それは絶対に避けなければならない。

これは、”器”の問題。

わたし程度の”器”では、関係や距離を御しきれず、それらに自らの人生を呑まれてしまいかねないから。


ひとにはそれぞれ、自分の”器”に相応の仕事があると思う。

今後、わたしに万一、仕事の関係で政治や宗教とかかわる必要に迫られることがあったとしたら、それは、自分の”器”の範囲を超えている、キャパオーバー状態だということの証左なのだ。


その必要性にぶつかった時点で、わたしがとるべき行動は、進出・拡大といったアクセルではなく、それが必要なくなるレベルにまでブレーキをかける、つまり、仕事の内容や範囲を見直すことなのだ。


ともかく、仕事には、それに対応するだけの”器”が必要なのだと思う。

ジョン・レノンやシロッコ(ガンダムの!)ほどの大器ならば、ある程度のところまでそれらと関係をもち、御することもできていたのだと思う。

(才能の規模が違いすぎて引き合いに出すのもおこがましいけれども、感覚・思想の方向性[あくまで方向性]としては、わたしはジョンやシロッコのそれに近いと思う。)


しかし、彼らほどの優秀さをもってしても、最終的には難しかった……そんなことに、”器”小さじ(5ml)レベルのわたしがヘタに手出ししてどうにかなるはずなどない。

だから、そこはもう、徹底的に自覚・自衛しかない。

その点に関しては、100%丸腰。最初から白旗。ブキ\(・ω・)/モッテマセン


もっとも、ジョンやシロッコの場合は、その才能の大きさゆえに「避ける」という選択肢がそもそもなかったのかもしれないけれど……

ジョンもシロッコも、利用価値の高い才能にあふれたひとだよね。


いわば、”人間油田”みたいなひとたちだと思う。

だから、戦わざるを得なかったんじゃないかな? 生きるために。

自身が好むと好まざるとに関わらず。

(ジョンの場合は元来、野心や好戦的な面があったのかもしれないけど……)


だってさ、ある日突然、自分の庭に油田が湧いたことを想像してみたらさ…

石油をかすめとろうとする盗人がわらわら集まってくるだろうし、利権に群がる系のオトナとかもたくさん擦り寄ってくるだろうし、だまして利用しようとするひとなんかもたくさん現れるはずで……

そういうひとたちから身を守れなければ、一気に自分の人生を呑まれてしまうと思う。


石油なら、まだ放棄して逃げ出すこともできるかもしれないけど。。。(それもすごくつらい理不尽な話だけど…)

もしもそれが、自らの「才能」だったら? 「自分自身」だったら?

「命」を投げ出して逃げることなんて、できないよね……


僕が僕であるために勝ち続けなきゃならないっていう歌があったけど、「僕である」というレベルを超えて、じっとしてたらやられる、まさに「やるか・やられるか」の土俵だったんじゃないかな? ”人間油田”的なレベルのひとにとっての、「世界」って。


わたしの場合、幸か不幸か、その点に関しては選択肢がある。

だから、わたしは関わらない。


「無政治・無宗教、丸腰の非暴力不服従」、そのスタンスが原因で村八分に遭って、食べるに困るほどの状況に追い込まれるなら、それはもう、「(あずなのような存在など)排除してしまえ」という、この世界の総意なわけで。

甘受して淘汰されるしかない。


常々、いろんな意味で柔軟でありたいとは思っているけれど、このスタンスに関してだけは、今後も【絶対に覆ることはない】と思う。


わたしレベルの人間は、自分の外の世界を変えようなどとは一切考えず、生活に必要とされる範囲内で相手とコミュニケーションを図っていけばいい。

当人同士の同意がとれる範囲内で、(必要があれば)相互に影響を与え合っていけばいい。

それで滅びるなら、それはそれで仕方がない。


わたし程度の”器”で、自分の半径5mより外のよそ様にまで影響を与えようなどと考え始めると、かえってロクなことにならない。

(わたしの場合、そもそも自分の物理的生活圏の範囲外に影響を及ぼしたいとは思わないけれども…)


ガンダム初心者なのでわかったようなことはいえないけれども、シロッコって、

「自分の”器”の小ささを認識できず自分の”器”以上の大きなものまで支配したがる人間、支配欲や嫉妬に駆られて野放図に行動拡大する人間、そういう人間が他人にとってどれほど”毒”になるのか、歴史的にみても、彼らが自分より”器”の大きな人間(シロッコいうところの”天才”?)の営みをいかに阻害してきたか…」

そういうところにかなり意識的だったんじゃないかな?と、感じる。

(ガンダムに詳しい方、「この場面をみる限り、あずなの仮説はおかしい。シロッコはそんなこと思ってないはず」等ありましたら、ぜひご指摘ください!!)


ちなみにだけど、わたしが問題にしているのは、野心や支配欲の”絶対値”ではないよ。

野心・支配欲 : ”器”・才能 の割合をいってて。

”器”・才能の大きいひとが大きな野心や支配欲をもってるのは、集団全体にとって有益なリーダーシップだと思うし、個人的に大好きだったりもする(/ω\*)

問題は、野心・支配欲に見合う”器”をそのひとがもっているかどうか…っていう、そこんとこの話。


で、「わたし自身には他人様にどうこう働きかけられるような、そんな”器”ないし。すーぐてんぱるし…」みたいな、そういう話。


以上、「”器”の大きさ」の面での話だったのだけど。

それとは別に、「ターゲット層」の面でも、わたしは身の程を知らなくてはいけないなと思う。


ある程度、自分の真意が意図どおりに伝えきれる”層”(の限界)って、なんだかんだで、やっぱりあると思う。

「伝える」ための意志や行為は必要だけど、一定ラインより先はもう、「相手」に、「伝わる」に、委ねるしかない部分だと思うし。


それはもう、芸術・文章・会話・面接・プレゼン等々問わず。

あらゆるコミュニケーションについていえることで。


自分の感覚のマイノリティさ加減を考慮すると、共感してくれる可能性のある層が仮に、全体の0.0005%だったとして、パイの大きさをそれ以上に見積もってしまうと、軋轢の摩擦熱だけで、届くべきひとのところに届く前に燃え尽きてしまう可能性もある。


しかも共感してくれる可能性のある層っていうのは、あくまで「可能性のある」層というだけなわけで、こちらが言葉を尽くさなければ当然伝えられないし、ひとたび伝え方をしくじれば誤解されるし、こちらが言葉を尽くしても、相手側が忙しかったり、こちらに興味をもっていなかったりで、必ずしも耳を傾けてくれるとは限らないわけで。


ガンダムでいうところの敵方として出会ってしまう、みたいなシチュエーションもあったり。


リィナが抱いた嫌悪感は、結局のところハマーンの抱えていた嫌悪感と同種のものであったとしても、リィナやジュドーの心がハマーンのそれに寄り添うことはなかったわけで……。


当然、出会うタイミングもあるしなあ。。。


ジョンやオノ氏が軋轢を恐れずに表現してくれたからこそ、今、わたしなんかがこうして彼らの言葉や作品に支えられたり勇気づけられたりしてるわけだけれども。

ただ、それがジョンやオノ氏自身の人生にとってどうだったのか?となると、そこは、一方的な鑑賞者目線でアレコレいえない部分だと思う。


仮に、両氏の人生においてそのアプローチが最善策であったのだとしても、わたしがそれを単純に真似して「わたしもreal loveを見つけるんだ!」とやったところで、同等の効果をあげきれるとは限らない……って問題もあるしなぁ……哀しい現実だけど。

それこそ”器”の大きさが違いすぎるからねぇ……(;^_^A


そこは、尊敬できるひとたちに学びつつも、自分の実力もろもろを自覚・考慮したカスタマイズが必要だよなあ。。。

悩ましいところ。。。