名前をつけてやる
このあいだね、たまたま教えてもらって、スピッツの「名前をつけてやる」って曲を初めて聴いたんだけど。
これ、すごい好き~(´∇`)
聴いててすごく心地よい曲だなって感じた(^-^)
この1週間、すっごぃ脳内ヘビロテ☆
名前があって そこに愛があって
たとえ一人になっても花は咲いている
なんか、ぐっとくる歌詞。
この歌詞、個人的な感覚としても、すごくしっくりくるっていうか、ほんとそうだよなぁ…って、しみじみ感じるんだよね。
『ねこのごんごん』っていう絵本があるんだけどさ。
そのなかの、”名づけ”のシーンが、すごく印象的で。
民家に迷い込んだ子猫を、その家の先住猫(老猫)がとてもあたたかく迎え入れて、その子猫に名前をつけてやる場面。
その場面からも、絵本の表紙からも、老猫の優しさ(やさしいって、すぐれてるって書くよね…)がひしひしと伝わってくる感じで。
その物語のなかには、えばりんぼさんの先住犬も出てくるんだけど。
「この子猫には名前がない」って状況に対する、老猫と先住犬の対応が対照的に描かれてる感じがした。
「育てる」っていうこと、「授ける」っていうこと、そういうことの在り難さ・得難さみたいな現実に、あたたかさとかせつなさとかないまぜで、ぎゅぅっとなった感情を呼び起こされる感じ。
大好きな絵本。
ちなみに……
わたしの名前って、ちょっと特殊なつき方してて。
自分と同じような経緯で名前がついたってひと、まだ会ったことないくらい。
「ぃゃぃゃいや…”つき方”って、、、(^▽^;) 名前を”つける”、他動詞でしょ!」って思われるかもしれないけど。。。
わたし、名前をつけてもらってないんだよね…
だから「名づけ」じゃなくて「名づき」なんだゎ。自動詞(笑)
で、まあ、この”名づき”の経緯に、わたしが生まれ育った家庭というものが端的に表れてる感じで…
そのあたりのことをちょっと書こうかな…とも思ったんだけど、、、あまりにもオドロオドロしくなったので思いとどまった(笑)
今年の年頭(1月10日のブログ)に、「価値観をマルハダカにして晒して、本当に出会うべきひとに出会うのだッ!!!( ̄‥ ̄)=3」みたいなこと書いたけど。。。
なんかもう、”裸”を通り越して、もはや”内臓”だった(笑)
自分から出てくる言葉に、自分がドン引きした(笑)
パラドクスかもしれないけど…
露出しなきゃわかりあえないとは思うんだけど、これを露出するっていう行為が果たしてわたしというパーソナリティに忠実なのか?って考えると、なんとなくしっくりこない感じで。。。
自分、ほんとヘタレやなァ…(´Д`)と思いつつ、、、やっぱ、今回は書くのよしといた。。。
で、話がそれちゃったけど、なにがいいたかったかというと、「人生の第一歩を踏み出すときに、名前をつけてもらえなかった子がその後どうなったか」ということで。
(あくまで、わたしという個別事例なんだけど…)
ざっくりいうと、
立てるけど、咲けない。
みたいな感じかな……。
立てるんだけど、、、っていう話。
もうね、それはそれは(良くも悪くも・苦笑)たくましいの。我ながら(笑)
「愛があって」というような状況で生まれ育ってこられた方々が、ちょっとビックリされるような、崖を臨むエーデルワイスもビックリみたいな、そんなアクロバティックな環境でも、アラ不思議、立っていられるんだよね。ひとりで。
立ってられるんだゎ。たとえ、ひとりになっても。
でもさ、咲けないのよ。ひとりでは。
しまいには、もう、立ってる意味すら、わからなくなる感じ。
ひとりでは。
名前をつけてもらえなかった子は、、、
たとえ、ひとりになっても、
立っている。(けど、咲けないでいる。)
……そんな感じする。当事者の実感。
なんとなくなんだけど……これって、「早い時期に親猫から離された子猫は、大きくなっても”フミフミ仕草”をし続ける」っていう、あれと同じなんじゃないか?とか、たまに思うんだよね。
動物学者じゃないから、断言はできないんだけども。。。
ガンダムに出てくる
「地球で暮らすひとたち」←→「宇宙で生活するひとたち/宇宙に新天地を求めざるを得なかったひとたち/宇宙を漂った経験のあるひとたち」
「ニュータイプとしての覚醒」
みたいなのも、なんか、「フィクション」「現在ではない、まったくの未来の話」とは割り切れない感じ、すごぃするんだよね。。。
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