何はなくとも、愛

※いつもおしゃべり口調でブログを書いていますが、今回は少し改まってお話しいたします。※


わたしは他の何はなくとも、とにかく、「愛」のある”ホーム”(←→アウェイ)を築きたいという思いが強いです。

とにかく、愛。


ただ、ひとくちに「愛」といっても、「愛」と聞いて、それぞれのひとの頭の中に ぽぁ~~ん と、想起されてくるイメージはひとそれぞれ、千差万別のはずですよね。。。

そこで、わたしのなかの「愛」のイメージを説明しようと試みるのですが。。。


表現が難しいのですが……あえていえば、それはアンチテーゼ、否定形で輪郭が形成されているという感じなんですね……。(歯切れが悪くてすみません…)

ズバリ「コレ!」という「枠」のようなものがあって、そこにハマるひと(「愛」)を探す!ということでもない。

「こうじゃなきゃダメ!」というような「確固たる理想像」があるわけではない。


あくまで理想ありきではなく、お相手の理想や想いと向き合いながら、ときに自分の理想とすり合わせたりして、未来をつくっていきたいのです。ふたりで。


で、むしろ確固としてあるのは、【愛の無い家庭(アウェイ)だけは、絶対にイヤ!!!】という切実感のほうだったりします。

そうなると、結局、「”愛の無い家庭”(アウェイ)って何ぞ?」というところに、話がいきついてしまうわけです。

極力ヘイトスピーチはしたくないのですが、そういう必然性のもとに、今回、少しネガティブな話をいたします。


 *

ひとつ思っていることがあります。

それは、うちの父の大きな判断ミスは、母のような女性を妻に選んだことなんじゃないか、ということです。


もちろんですが、夫婦なんて、外野からはわからない、いろんな想いとかつながりとか、絆とか、たくさんあると思うのです。

父の結婚が父にとって成功だったのか、それは父自身が決めることであって、いくら娘といえど、わたしにそれを決める権利なんて1mmもない。それについて外野からあれこれいうのはお門違い。そこは前提としてあります。


その前提があって、あえて踏み込んで書くのですが……彼らの娘の立場から彼らの結婚をみてきて、父は、こんな家庭ではなくて、もっと、何はなくとも「愛」のある家庭を追求すべきだったんじゃないのか?と、しみじみ思うのです。あくまで娘の立場から見た実感です。


もっと踏み込んでいえば、わたしが父と同じ判断ミス(わたしからみると判断ミスに見える)をしたら、もう、家庭は不幸の再生産装置でしかない、と。娘としての実感です。


わたしは彼らの結婚の部外者ではあるけれど、それと同時に、彼らの結婚の”結果”としての、当事者でもあるわけです。その立場から、今、こういった踏み込んだことを書いています。


それは”父の”判断ミスなのか? ”母の”判断ミスではなかったのか? と疑問に思われた方がいらっしゃるかもしれません。

あくまで予測ですが、母の場合は……相手が誰であろうと、同じ結果になっていた気がします。

もし母に判断ミスがあったとすれば、それは相手選び云々ではなく、(おそらく)世間体のために独身を貫けず「結婚」することにした、そのこと自体なんだと思います。


父は、あんなに愛に飢えてるひとなのに、なぜ、自分を「容姿」「仕事を続けることを許容してくれる(当時の地方都市でフルタイムの共働きは珍しかった)」 「実家同士が近い」という観点で評価する(≒という観点でしか評価できない)、母のような女性と見合い結婚したのだろうと。(まあ、理由はなんとなく察しがつくのですが……)

母の価値観では、外見は最重要ポイントのようですので、それはある意味高く採点されている、すなわち「愛されている」といえば「愛されている」のでしょうけれども……(※)


母のような、マゴコロプロトコルの通じない女性ではなく、もっと、父の内面世界に深くコミットしてくれる女性を、どうして選ばなかったのだろうと。

父みたいに愛に飢えてるひとの場合、他の何を差し置いても、まず、そこを重視すべきだったんじゃないか、と。


身内のひいき目にみても、父はお世辞にも「好人物」とはいえないのですが……

それでも。外見や現況、条件だけでなく、父という人間の”根”の部分を認めることができる女性、父と一対一で向き合い、父の内面世界に深くコミットし、いろんな意味で父を変えていってくれる女性も、まったくいなかったはずはないと思うのです。


理想や目標を共有し、相手が自分を変え、自分も相手を変えることができ、「カップル」として「人間」として、共に・互いに成熟していける関係……つまり、愛し合い・愛され合う、そういうことのできる女性だって、まったくゼロではなかったと思うのです。

妻と笑って泣いてケンカして仲直りして、すったもんだしながら、なんだかんだいって【心の】充実した日々を過ごす……父みたいなひとの人生に必要なのは、何はなくとも、そういう、あたたかい感情の通い合う時間だったんじゃないかな?と思うのです。


わたしが娘として、当事者として、その役割を果たしてあげれば?と思われた方がいらっしゃるかもしれませんが……

夫婦関係とは別に、親子関係には親子関係の問題があって、実際問題、それは難しかったです。

こちらとしても、娘として、家族として、さんざん試行錯誤し、ベストは尽くしたつもりではありましたが……結果的には、やはり、いろいろ、難しかったです。


わたし自身、父の娘であると同時にひとりの人間であり、女性であり、父のためだけに生きられるわけではありません。

父は父で、娘に犠牲となってもらうことを求めきれるようなプライドの低い人間ではありませんし、逆にいえばそれができるだけの決断力・責任感を持ち合わせた親でもありません。母のように、犠牲となることを無自覚に強要できてしまうようなデリカシーのない人間でもありません。


ともかく。わたしは、父と同じ轍は踏みません。

わたしは、他の何はなくとも「愛」のある結婚をしたい。たとえ、別の面で苦労があっても。わたしももういい歳ですし、そこは腹を括っていくつもりです。


突き詰めていえば、そこに「愛」があるなら、それは「結婚」という形式でなくても構いません。


もちろんですが、わたしは「見た目や現況で評価すること」自体を否定的にみたり、批判したりしているわけではありません。それは違います。

「外見」で評価するのも「内面」で評価するのも、「毛根の数」で評価するのも「シナプスの数」で評価するのも、本質的にはまったく同じことだと思います。単にウエイトの置きどころが違うだけの話で。

逆に、「お相手が自分の外見をプラス評価してくれる」という点を、他の何を差し置いても重視して判断すべき男性も、当然いると思います。そうしなければ男性側の自尊心が満たされないケースだって、あると思いますし。


ただ、うちの父のような人間のケースでは、外見重視(というより「内面度外視」といったほうが正確ですかね…)で選ばれるという判断は不適切だったように思います。

条件・外見【も】気に入ってくれる相手なら、最高だったのだろうと思います。


ちなみに……わたしは、オノ・ヨーコ氏「Born In A Prison」という曲のなかの、

Wood becomes a flute when it's loved

というヴァースがとても好きです。


いいところも悪いところもひっくるめて互いの性質を理解し合い、認め合い、生かし合い、フォローし合い、愛し合える――そういう相手がそばにいるか否かで、人生って大きく変わると思います。大げさな話ではなく、本当に。


Yoko Ono「Born In A Prison」 歌詞

押韻も美しい詞だなあと、しみじみ思います。

「Wood becomes a flute when it's loved」のところから、ジョンがコーラスをつけています。