体温の器

わたしって、基本的に、「作者の体温」が感じられるような作品を好む傾向にある気がする。

作品、っていうのは、絵画とか音楽とか、詩とか小説とか映画とか。そういう創作系のもの。


アプローチを変えていうと……創作系の“器”は、「私的な感覚」を容れる用途に最も適したものだと考えている、ということになるかな。(私小説とか、そういう意味じゃないよ。)

もちろん、あくまで持論ね。


それ以外のもの……たとえば、「説明」や「事実(の伝達)」、「真実(の記録)」、「お説教」、「メッセージ」……そういうものが格納されている創作系のジャンルを、基本的には好まないというか……。


基本的に「一般論に敷衍されるような性質の情報」は、説明文や論文のようなストレートな形式で、反証可能なかたちで伝達・蓄積していくのが一番いいと思ってる。わたしは。

撹乱の意図なく、本当に正しく伝えようという意志があるならば。


「お説教」や「メッセージ」ならば、チラシや手紙のような「宛先」「目的」が明示された媒体にのせるのが一番適切だと思う。誰から誰に向けられたものなのか。

(そういう意味で、わたしは、センシティブな内容や本質的に“正解”などない問題を含むブログの冒頭に「この文章は、わたしを人生の伴侶候補のひとりとしてご検討くださる方との間に、コミュニケーションの下地をつくるための資料です。評論活動をする意図はまったくありません」みたいなことを、くどくど前置きしたりしている。いっつも前置き長くてくどくてゴメンだけど、そういう意図があるのです……)


ステマがしばしば反感を買うのは、「送り主・宛先」というメタ情報が意図的に伏せられることで、受け手の側に、「正確な判断の機会(自己決定権)を奪われた・裏切られた」感が残るからではないかと思う。

コマーシャルアートは、コマーシャルだと明示されているからこそ、安心して楽しめるっていうか。


検閲や言論統制が厳しかった時代には、創作物に紛れ込ませるようなかたちで、受け継いできた真実やメッセージを残していくということも、ときには必要な手段だったのかもしれない。

ただ、現状においては、

 「ノイズや伝達精度が低い状態で『事実』や『真実』を伝えること」(=誤認のリスク

と、

 「あえてその方法(創作系の容れ物に格納する形式)で伝えたことでのベネフィット

が、つりあっていない気がする。


こと「事実」や「真実」においては、中途半端な状態で不確かに伝わってしまうくらいなら、まったく伝えないほうがまだマシだと、わたしは思う。

読者の自己決定権を奪ってでも、なんとしてでも呑み込ませたいのなら、話は別だろうけれども。


ただ、たとえ叙事詩であっても、歴史小説であっても、メッセージソングであっても、そのなかに「熱い感情」や「ひしひしとした実感」(おそらく、作者自身が人生のなかで、ナマミで感じ取ってきたもの)がいっぱい詰まってるような作品は、大好き。

ジャンルを超えて、すごく好き。


もっとも、わたしの場合、そういった作品に格納されている諸々の「情報」をほぼ無視して、「作者の体温」の部分ばかり拾って味わうような鑑賞の仕方をするから、その作品(ジャンル)の本来の醍醐味を、正味では受け取っていないんだろうな。。。


そのジャンルの、いわゆる“通”というひとたちからみると、

 「あんな名作みて、その感想かよ?!(/_< ) いったい何をみてきたんだ…(-"-;)」

と、あきれられてしまうかもしれない……(;^_^A