ジョン・レノンのQOL
QOL、クオリティ・オブ・ライフって言葉あるけど。
人生を測る尺度って、長さだけじゃないよね。
もちろん、病気や事故で無念のうちに亡くなるとか、他人の暴力によって不当に命を奪われてしまうとか、その一点に関していえば、間違いなく「悲劇」だけれども。
たとえば27年なら27年で、単純に(終わり方の問題は抜きにして)、そのひとの27年間の人生が、そのひとにとってどれだけ良いものだったか、ということを考えてみると、それってやっぱ長さだけの問題じゃないよな……って。
自分のなかで「良く」生きた結果が27年の生涯なら、それはそれでいいんじゃないかなって。長けりゃいいってもんじゃないだろうし。
「生きてる=死んでない」状態で87年の生涯を送るのと、どちらがいいのかっていうと、それは、単純に答え出ないよなあ……って。
わたしは今、現に、生きることに対して完全に気力喪失しちゃってるけれども。。。
「愛」がなければ、もう、こんな世界のなかに生きる価値なんて見出せないよ。正直。
こうなった直接的なきっかけとしては、それまでの人生でコツコツ積み上げてきたものが一気に瓦解する瞬間とか、そういうのに遭遇したことが大きかったんだけど。
(分析・反省して、今後同じ失敗は絶対にしないようにするけどね。)
よくよく考えてみれば、結局、ジョン・レノンが40歳で撃たれて死ぬようなこの世界なんて、わたしにとって生きやすい世界なわけないんだよね。そもそも。
ジョンみたいなひとが40歳で不当に命を奪われる世界なんて、わたしのような価値観に照らせばそれだけのものなんだろうし、そんな世界に何かを期待しても仕方ないよね……っていう、なんか、そういう絶望感みたいなのが、胸に巣食っちゃってるんだよね。完全に。
(※もちろん、似たような価値観や感覚をもった人間のなかにも、凄いひともいれば無能なひともいるわけで、当たり前だけど、わたしはジョンみたいな才能は皆無の一般人。いわずもがなだけど…汗)
ジョンとオノ・ヨーコ氏が一時期傾倒していた反戦運動について、お花畑的な思想と評されることもあるようだけど……ふたりは、清濁併せ呑んだプロモーション的手法で、ワロエナイ現実の上にファンタジーを描いたんだと思う。いろんな見方はあると思うけど、個人的にはそう思う。
ジョンは若くして栄光の裏表をみてきたひとだし。ヨーコ氏はヨーコ氏で、泣く子も黙る財閥のお嬢様だし。
正直、ジョン・レノンファンのエゴとしては、「平身低頭にでも平穏無事にでもなんとか生き延びて、50歳のジョン、60歳のジョン、70歳のジョン……の歌を聴かせてほしかった、その、生きる背中をみせてほしかった」と思わずにはいられないけれども。。。
でも、幼い頃から親と離れて暮らし、ビートルズの成功であらゆるものを手中におさめながら「Help!」と歌ってたジョンが、それまでの人生の何もかもを捨ててしまえるほどの「愛」をみつけることができた……その「愛」のために生きて、変わっていき、そのなかで、新たに手にした「強さ」や「よころび」にあふれた曲をたくさん生み出して……
その人生の結果が40年の生涯であったのなら、それは、ファンとしても、ちゃんと受け入れたいって思う。
(※ジョンの命を奪った暴力は絶対に許容できないけれども。)
あー、わたしは、やっぱり、「愛」に生きたいや。。。
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