大きな曲がり角を曲がったなら……

この歌↓、最近ちょっと機会があって改めて聴いてみたんだけど……。歌詞、激しく同意!!!!!(T-T)

 ▼the brilliant green - There will be love there -愛のある場所-(→歌詞

てか、この歌、もう15年くらい前の曲なんだね。。。

1998年だと、わたし18くらいのときだなあ。ヒット曲だし、リアルタイムでも聴いてたはずだけど。

30過ぎた今、「まるで手すりさえもない真っ暗な闇の中にある階段をあてもなく降り」るような経験を経て、改めて聴いてみると、しみじみ胸に迫るもの、あるなあ。。。


わたし自身が絶望の底でみたのも、なんだかんだいって、やっぱ「愛」だったしなあ。。。


自分がうつくしいと感じるものが燃え尽きていったり、足がすくむくらい汚いものみたり、違法駐車してる車を避けようとした車が対向車とぶつかりそうになって謝ってるのにちょっとの不注意を延々責められ続けててその傍らを違法駐車してた車が悠々と立ち去っていく…みたいなことばっか巷にあふれてたり。。。

そんな現実ばかり目の前に突きつけられてくると「この世界に、そんなにがんばってまで生きる価値、なんかあんのかな?」とか、つい思っちゃったりもするけど。。。


そんななかでも、「愛」があれば、自分でびっくりしてしまうくらい強くあれるってことも、やっぱり事実で。

それに気付かせてもらえる瞬間の、清水のようなさわやかさが胸を抜けていく感じは、やはり、一瞬にしてどんな努力にも報いてしまうほどのもので。


こんな瞬間があるのなら、この世界は、やっぱり、走りぬくに値する場所なんだろうって、素直にそう思える。


逆にいえば、「愛」のない人生で、いくら「ニンジン」を追い求めて走っても、それは、基盤のないところに家を建てるようなものだなって、わたしはそう感じる。(※あくまでわたしの価値観です※)

わたしにとって、「愛」以外の、meaning of successは、すべて、まさに「そこから流れて行けるような世界」なんだよね。

「愛」という基盤があってこその、「愛のある場所」の延長線上にあるべき、その先の「世界」なのね。


わたし、3年ほど前に、いろんなヘヴィなことが一時に重なって私生活が崩壊してるんだけど。

そんとき、自分でも驚くほどの切り替えの早さで立ち直ったんだよね。


その過程では、仕事を通じて出会えた方々からの支えが、かなり大きかったかな。冗談抜きに、その方々からの支えがなかったらわたし、死んでたかも。あと、音楽。音楽(アマチュアミュージシャンの作品)に杖みたいにすがって、やっと歩いてるような一時期があった。


ただ、地道に目標を設定してそれをクリアして……そうやって環境が落ち着いてくるほどに、「ボロボロの素肌に懸命にファンデーションを塗っている」感が、自分のなかで、日に日に明らかになってきた感じがしたんだよね。。。(※化粧は比喩です※)


だから、短期的にみると歩みは鈍ってしまうかもしれないけど、でも、まず、一度しっかり立ち止まって、ひとりの人間として生きるに足るだけの”何か”をみつけようって。そう思った。

人生の激震から3年以上が経った今、わたしが次のステップとして、新たに見据えなければいけないのは、この歌にあるような、「強さ」なのかもしれない。


”今、確かに目の前にある「愛」のために、「すべてに立ち向かう強さ」をもてた”っていう経験なら、これまでの人生のなかで、わたしにもあるけど。

この歌にあるような、”この先の、未来にあるはずの「愛」のために、強くあれる”っていう経験は、まだない気がするんだよね。


この道の先に、必ずあるはずの「愛」を信じ抜くこと。信じて走り抜くこと。それはすなわち、「自分を信じ抜く」ということなんだろうな。きっと。


昨夏からネット婚活を始めて、もう随分、ブログで率直に、かなり大胆に、自分をさらしてきたけど。

でも、まだ、まだ、足りないのかもしれない。踏み込み方が。そんな気もする。


 もっと忌憚なく! もっとホンネで!! もっと、もっと、自分の心のカタチに忠実に!!!

 でなきゃ、せっかくリスクとって出会い系始めた意味なんて、ないじゃないか!


そうやって、自分に鞭を入れてみようと思う。2014年は、もっと、もっと。

もっと、もっと。言葉を、呑み込まずに。カットせずに。


この30余年の人生のなかで、自分で自分をがんじがらめにしてきた、この「糸」を思い切り断ち切って、ぶっちぎりに、全力で、走りに・走りに・走り抜くべき、そんな時期に差し掛かっているのかもしれない。

2013年のブログだって、かなり率直に書きまくってるわけで、「嘘つきの糸」とまではいえないけど。ただ、「イイコちゃんの糸」は、まだ、完全に断ち切れていないのかもしれない。そんな気もする。


売れるために描いた絵、そこを通じて得た支持は浮動票だけど、自分のイメージに究極に忠実な絵、そこを経由してコネクトできたひとは、きっと、ちょっとやそっとのことでは離れていかない。(※絵は比喩です※)


踏み込んだところ(価値観)に言及することで、離れていってしまうひともいる。確実に。

思い切って素直に自分を表現するということは、わたしにとって、出会いの間口を「針の穴」にすることになる。

その間口から、わたしのなかに入ってこれるひとは、極々、少ない。これまでの経験上、それは間違いないと思う。


でも、その、小さな・小さな針の穴を通って心を通い合わせることができた相手なら、距離も、現状の利害の不一致も、今後の人生のあらゆる問題も、絶対・絶対に一緒に乗り越えていくことができる!

そこには、確信に近いものがある。


そして、その小さな・小さな針の穴を通過できるひとは、極々・極々少ないにせよ、この世界のどこかに、絶対に、確実に、いる。そこにも、確信がある。


生き馬の目を抜くこの社会、リアル世界でも、ネット世界でも、道端をハダカで歩いてるひとなんて、きっと少ない。

それならばこちらから、わたしの側から、自分の価値観をマルハダカにしていけばいい。

(難しいけど…(;^_^A)


わたしがあきらめずに、根気よく、自分を忠実に表現し続けてさえいれば、わたしが「本当に大切にすべきひと」は、きっとわたしを見つけてくれる。見つけ出してくれる。そこにも、確信に近いものがある。


20代までのわたしの人生は、「自分が本当に大切にすべきひと」【ではない】ひとたちに、とらわれすぎて生きてきた人生だった。振り返ってみて痛切に、そう思う。

わたしは、自分の人生の重大な決定をする際に、わたしのことを人間扱いしてくれないひとたちのことなど、考慮すべきではなかった。それによって、可能性や機会を無駄にすべきではなかった。これは、わたし自身の、重大な判断ミスだった。


「自分のことを人間扱いすらしてくれない相手に関わって人生を空費するのは、もう、絶対にやめよう」、30過ぎて、わたしはハッキリとそう決めた。

もう33歳。わたしはすでに、「本当に大切にすべきひと」(「愛」)にたどり着くまでの最終コーナーを、曲がらないといけないタイミングにきているのだと思う。ここにくるまでに随分遠回りしてしまったし、ひとよりも随分、遅いタイミングだけど……

でも、今からでも、遅くはないはずだし、わたしは絶対あきらめない。


わたしは「愛」のない家庭に育ったけれど、人生前半の失われた時間を、得られなかった「愛」のある時間を、今からでも、絶対に、取り戻してみせる。これは確信。

自分が本当に、本当に大切にすべきひとを、自分の力で引き寄せてみせる。絶対に。


………て、、、ち、ちょっと力説しすぎてもたな…(^▽^;)


読み進んでおられるなかで、、、

 「ああ……こりゃ、最後にあのひとの名前が出るんだろうなあ……(;^_^A」

と思われてた方!(笑) いらっしゃったとしたら、たぶん気が合います(笑)


……ということで(?)、最後は、「愛」のあるところに到達された、このお方の作品で〆ます( ´艸`)

▼John Lennon - Woman(→歌詞