わたし(たち)のガンダム

Gガンダムを観たときに、気付いたことがあって。

「ああ…わたし、ガンダム作品を無意識のうちに『わたし(たち)の物語』だと思ってたんだな……」って。


もちろん、Gガンダム観る前の時点ですでに、自分がガンダムに”ハマった!”ことは、十分自覚してたんだけど。。。

ガンダム観た当初から、すでにいろいろ衝撃を受けてて……


ただ、多々ある「ガンダムに夢中になった理由」のなかに、

「これは『わたし(たち)の物語』だ、という意識」

があったんだ……っていうことは、ちゃんと自覚できてなかったっていうか。

そのことに、Gガンダムを観て、気がついた感じ。


Gガンダムを観てて……

他のガンダムシリーズと同様、(T-T)とかo(T^T)oとか(´;ω;`)とか(´∇`)とか(≧▽≦)とか……ストーリー展開・セリフ等々に一喜一憂しつつも………

”画面(越し)のこちら側”にいる自分に、気付いたというか。。。


たぶん、なんだけど……

わたしがGガンダムの前に観てきたガンダムシリーズって、

「人生を通じて(自分のなかの)ゼロを1(以上)にしてきたひとたちの物語(1にする過程の物語/まだ1にできずにいるひとたちの物語)」

だったんじゃないかな??って。


「ゼロから1」どころか、「マイナスから…」だったり……そういうキャラもいて。


一方Gガンダムは、すでに10持ってるひとたちがそれを100にしたり1000にしたりする物語だな…って、なんかそんな感じがして。


「んなこといったら、アムロなんて、10持ってるどころか、父ちゃんはガンダムの技術責任者なんだし、アムロ自身ももともと機械マニアだったわけで……」って思われるかもしれないけど。。。

そういうことじゃなくて……なんていうか………

ララァ風に言うとしたら……

守るべきひとも守るべきものもなく、”不自然”に生きてきたわたし(たち)、、、というか……


ララァは、それをすでに見つけているけど……

ただ、ララァはそれを生まれながらに、持っていたわけじゃない。

ララァはシャアと出会って、自分のなかのゼロを(マイナスを?)1に(1000に?)することができた。(……のだとわたしは思う。)


それって、もともと10持っていたひととは、違うんだよね。やっぱり。根本的に。

たとえ、現行値(10とか1000とか)が同じでも……


だからかな……

ファーストガンダムは、わたしにとって、まぎれもなく

「わたし(たち)の物語」

だったんだな…って。


いわずもがなだけど、どっちが良いとか悪いとかの問題じゃなくて、ただ、種類の話。

(世の中、「10を1000にする物語のほうがリアルに感じる」って方のほうが多いかもしれないし。てかたぶん、そっちのが多い。)


作品としての「好き/嫌い」にも直結はしない。

だってわたし、Gガンダム、大好きだし。めいっぱい楽しんだし。

登場人物も大好きだし。(師匠ッ師匠ぉぉッ!!!(≧▽≦))

もちろん、師匠だけじゃなくて、ドモンもレインもアレンビーも(アレンビーもアレンビーの乗ってるガーリィガンダムもめっちゃ大好き!!!(´∇`))、ドイツ忍者も、(0083のバニング大尉と同じお声の)カナダの仇討ち氏も……好きなキャラいっぱい。


「わたし(たち)の物語」じゃないから作品としてつまんないとか、そんなのはまったくない。それは全然違う。

楽しみ方が、楽しむときの立ち位置が、少し違うだけ。


でもなんだろ……視界、フレームとしてのリアルさっていうか、、、別の意味で、わたしにとってすごいリアルっていう感覚はあって。

わたしが、「世界」「みんな」をみてる、その景色っていうか。


「みんな」っていうとき、”そこに自分は含まれない”という感覚が、なんか根深くあるんだよね。。。


当然、「世界」とわたしには、どうしてもというか、多少は利害関係があったりするし……それに、自分に直接関係ないことでも、ただ単純に「よかったね(´∇`)」とか「それは……(´;ω;`)」とか心動かされたりするし……そんなふうに「世界」と自分は実際、地続きなのだけど……


Gガンダムをみているときの視界には、普段「みんな」を(輪の外側から)みてるときの感覚が、すごくナチュラルにそこにあった感じ、するなぁ……