愛って、計算式の間違っている正解みたいだ

生きてるとさ、何がしかの「正解(の実現)」を求められることの連続じゃない?

【「100」をアウトプットしなさい】みたいな。


明示的に。あるいは、言外に。

身近なひとから。利害関係者から。社会から。

(小麦粉と砂糖だけ手渡し~の、「チャーハン作ってね」みたいな無茶振りもあったりなかったり…(;´▽`A``)


もちろん、求められること自体は、とてもしあわせなことだと思う。

誰からも何も求められなくなってしまうのは、人生、物足りなかったりするかもしれないけども……


でもさ、、、なんか、ずっと孤独だったんだよね。


いろんな入力値をひとりでこねくりまわして、なんとか帳尻を合わせ続けてきたような人生で……

「こういう入力値を与えたのに、アウトプットがこの数値じゃないなんて、おかしい」みたいに、自分の「計算式」(≒価値観・感覚)自体を否定されることの多かった人生で……


たとえば、感情なんてさ、完全に入力値を受けたほうの範疇のことじゃない??

「喜び」なんて、ひとに「喜べ!」と恫喝されてできるようなことじゃない、自然に湧いてくる感情でしょ?


ただ、社会的な、生活のコンテキストのなかで、「自分の感情を抑えて、白を着る」みたいなことが「正解」だということは厳然としてあると思う。

いわゆるひとつの、「常識」てやつ。

だから、日々、環境や条件や制約といった、さまざまな「入力値」を受け取りつつ、「正解」に近いアウトプットを必死に狙って、足したり引いたり掛けたり割ったり……な、おかしくも哀しい加減乗除daysなわけだけれども。。。


喜んでなくても、そりゃ必要なら笑うよ?

だけど、それはわたしのなかで「喜んでない」という厳然たる感情に、0.75掛けてみたりスッパリ2で割ったり最終的にビミョーになんか足してみたりコチャコチャコチャコチャこねくりまわして、やっと捻出してる「解答」(アウトプット)なわけよ。


昔から「変わってる」といわれることが多かったわたしの場合、「社会に適応したいという意志を持ち、折り合いをつけた結果の自分(社会との妥協点・外から見えてる状態)」「本来の個としての自分」との距離が、普通のひとよりも離れているのかもしれない。


文章を入り口として、実際に対面すると「イメージと全然違うw とてもあんな文章を書くひとにはみえないwww」っていわれることが多い(笑)(←どういう意味ょw)

だからかな……社会生活(リアル)での接点を入り口に声をかけてくださる男性の場合、ミスマッチな出会いがものすごく多いんだよね……「このひと、わたしのことなんか誤解してる…」っていう。


リアルでの接点をきっかけに男性に好意を示されて「本当に好かれてるんだな」って実感できたの、1回だけだもん。34年生きてきて、1回。元彼さんさんはわたしの側から口説き落としたひとだったし。


わたしはけっして美人でも優秀でもいい女でもないけど、曲がりなりにも女として生きてれば、まあ、そういうことも、それなりの回数はあるわけで……でも「自分自身を好いてもらってるな」っていう感覚って、ほとんどないんだよね。。。


それはけっして、男たちは見る目がないとか、不誠実だとか、そういうことをいってるんじゃない。

たとえていえば……「ピンクのパッケージに包まれたピリ辛せんべい」みたいな女だと思うんだよね。わたしって。たぶん。

普通に考えて、ピンクのパッケージみたら、中身、チョコレートかなんかだと思うじゃん? 中身チョコレートとかクッキーとかを想像する男性は、至って正常だよ。

ミスマッチな出会いを呼び寄せてしまう、誤解を招いてしまう原因は、明らかにわたしの側にあるんだと思う。


ピンクのパッケージといっても、容姿は、哀しいくらい全然かわいらしくないよ(泣)

容姿は全然かわいらしくない。(←大事なことなので二度いいました・笑)


容姿の話じゃなくて……なんだろ、立ち居振る舞いの雰囲気が、愛玩犬系みたいな感じ?らしい。(←正確なところはわからないので、実際に絡んでみてご判断ください。)

付き合うまで猫かぶってるとかじゃなくて、もっとずっと根深い感じ。意識しても矯正が難しい類の。


10年近くお付き合いしていた元彼さんとわたしは、お互いの「解答」(アウトプット)部分を愛し合ってたんだろうな。たぶん。

「計算式」の部分にコミットし合うことができないままで。


こちらからも一生懸命誠意を尽くしているし、相手の言動からも優しさや愛がものすごく伝わってくるのに、いつもどこかもどかしかった。

元彼さんも同じだったんじゃないかな…


「“解答”部分を愛し合うこと」、「アウトプットとしての現況を愛せること」と、

「その選択や“解答”や結果・現況の裏に、相手のどんな想いが、どんな目的意識が、どんな切実さがあったのかを理解し合う」というのは、

まったく別のことなんだよね。


元彼さんとは、毎日のことから過去の話まで、他のひとには絶対いわないようなことも、かなりシェア!シェア!!シェア!!!し続けていたわけだけれども。(約10年間にわたって。)

でもね、、、

若い頃のわたし(わたしたち、かな)は、コミュニケーションというものを甘くみすぎてた。


「計算式」の部分にコミットし合えないままで、情報量ばかりをいくら積み上げたところで、それはやっぱり、積み木のお城なんだよ。

(もちろん、少しもくだらなくなんてないよ。積み木のお城。自信を持って断言できる。くだらなくなんかない。実際、元彼さんに出会ってなかったら、わたしは”死んではいない[≠生きている]”人生を送り続けてたと思う。)


元彼さんには、本当に、冗談抜きで足向けて寝られないくらい、それまで知らなかった愛っていうものを、たくさん・たくさん・たくさん教えてもらってて。

間違いなく、わたしの前半生最大の恩人なんだけど。


わたしは筋金入りの無宗教人間だけども、元彼さんから与えてもらったものを「あれは愛じゃない」などといったらバチがあたる、みたいな、理屈抜きの感情がある。なぜかそこに関しては。

万が一にでもそんなことをいったら、いつか絶対、わたしは自分で自分のことが許せなくなってしまう、みたいな、予感というか危機感というか、食べ物を粗末にする場面を想像したときみたいな、嫌悪感とないまぜになった違和感のようなものが、心の底からぅぁあああと湧いてくる感じ。

まだ、付き合ってる頃なら「うちの愚息が~」じゃないけど、オッサーン( ´∀`)σ)∀`)みたいなんもありえると思うけど……わたしはもう、元彼さんにとってそんな立場の人間じゃないしね。


互いの人生を(「これから」を)重ね合わせようと、双方がもがきに・もがきに・もがいて、結局ダメだった…

その結論が出るまでに約10年かかった。


見方を変えれば、まぎれもなく「愛していた」からこそ、約10年間にもわたって、あれほどもどかしい試行錯誤を続けてこれたんだな…きっとね。

愛があったからこそ、そのもどかしい試行錯誤の過程が、わたしの人生においてかけがえのないものにもなったんだろうな。

(元彼さんの人生にとってどうだったのかはわからないけど……)


ちなみにね……その、たった1回だけリアル接点をきっかけに「本当に好かれているんだ」と実感できたというケースは、もう、口説きとか褒めとか、そういうの全然いらない感じだった。説明不要。

自分のなかを、ドミノがザーッと鮮やかに駆け抜けていくような感じがした。


わたしね、特定のアーティストを好きになる場合、

 作品にピンとくる→作者名確認→他の作品も掘ってみる→やっぱり好き(※たまに好みじゃない作品があっても、制作意図の部分はなんとなく理解できる)

みたいな流れが多いんだけど。


「あ、この写真、好きだな……へえ、マン・レイってひとの写真なんだ。」

(半年後)「あ、この写真、いいな……マン・レイか。前にどっかでみたやつも良かったな」

(1年後)「あ、この写真、好き……お、マン・レイか!」

みたいなことが続いて、そこで作品集見てみて、自分がマン・レイ好きであることに確信を深め、さらに自伝読んで琴線ビンビンふれまくり、みたいな流れ。

芋づるのね(芋づる式に)。


その逆バージョンだったっていうか。

初めて、相手の側から芋づられた感じ。


その方に貸していただいた愛読書とか、愛聴盤とか、それに対するその方の感想とか、語られる来歴やエピソードの端々とか……そういうのがもう、いちいち琴線に触れるっていうか、全部バーッと一気にリンクしていく感じ。

その方がわたしに声をかけてくださった理由みたいなのが、わざわざ尋ねなくても、ストーン とハラオチする感じで。


そのときかな。

「やっぱり、元彼さんと別れて良かったんだ」って、本当に確信できたのは。


別れて後悔したことは一度も無かったけど、お別れする前後にヘヴィーなことが立て続けに起こって身辺が落ち着かなかったこともあって、自分の判断に、確信と呼べるものまでは持ててなくて。

でも、いざこういう経験をしてみると、

「果たして、自分は元彼さんにこんな景色をみせてあげることができていただろうか?」

と胸に手を当てて考えてしまうよね……


結局、義理の面でいろいろあって、その方とは恋愛云々に至らなかったのだけれども……

でも、その1回の経験って、わたしのなかではものすごく大きかった。


ただ、その出会いは仕事関連のアクシデントみたいな感じで、普段とは違う(環境適応補正前の、ナマの本音に近い)わたしの姿を、そのひとにみられたのがきっかけになってるんだよね……

逆にわたしの側も、声をかけていただけなければ、その方の内面の激しい部分や奥深さを知る機会などなかったわけで……


その1回は稀にみる稀のレアケースだったから、リアルのなかでそういう出会いを再びみつけるって、やっぱりむずかしい……


でね。

「計算式」と「アウトプット」の話に戻るんだけど。


「計算式」の部分を共有できるということ、これって、ものすごく幸福なことだって気がする。


アウトプットとして「98」が見えているとして、Aさんはそれを100から2引いて出してきたのかもしれないし、Bさんは8に90足して導き出したのかもしれない。

つまり、現状で「100」をアウトプットしてきてるひとでも、入力値が変われば、「100」を出せなくなるかもしれない。


そのひとがどういうときに「100」を出せるのか/出せなくなるのかは、そのひとの「計算式」の部分をみてみないとわからないよね。

いわゆるひとつの「価値観」てやつ。

(価値観がピッタリ一致しなくても、)根本的な部分で相手の価値観を理解し合って、共有できる、っていう、個人的にはそこが大事なんじゃないかな、って思ってて。


たとえば……特定のアーティストのひとつの作品を好きになったとしても、制作のバックボーンとなった感性や目的意識の部分をそのアーティストと共有できていなければ、(売れたりして)環境が変わった後の次の作品を好きになる可能性は低い。

そこで”ファン”の側が

「○○という作品をつくったアーティスト/ファン」

という関係性にこだわり続けてしまうと、

「作風が変わってしまった。前のほうが良かったのに」

みたいに、アーティストと”ファン”で傷つけ合うことになってしまう。

(わたしも以前、そんなふうに、ひとを傷つけたことがある。)


環境が変われば、インプットが変われば、アウトプットだって変化するのは当然。

そこで、「そのアーティストの感性自体」やそのアーティストなりの制作工程の「計算式」自体に共感していれば、たとえば

「う~ん、、、今回の作品は個人的にあまり好きになれないな……でも、あのひとはこういうことがやりかったんだろうな…結果的にうまくいってない気がするけど、この環境下であえてそれをやる、その実験姿勢っていうか、チャレンジ精神は、やっぱりあのひとならではだなぁ」

みたいに、少なくとも「理解」はできるし、もし、そのアーティストと同じ目線に立てるくらいの力量をもったひとなら

「そういう目的に照らすなら、ここは、これじゃなくて、あれじゃない?」

みたいに、建設的なツッコミも可能になると思う。


だから、わたしとしては、男性の具体的な趣味とか現況とかはあんまり気にしてなかったりする。

根本的な部分で、お互いの価値観を理解し合い、受容し合い、許容し合い、尊重し合える(食い違ったときに双方から歩み寄って折り合いがつけられる)かどうかが、わたしにとっては重要かな……


たとえば、わたしにとっては「これイイね!」という部分(現況)で一致できることよりも、自分とは異質なもの・他人が大事にしているものに対する態度とか姿勢とか、そういう根本的な部分で理解し合えることのほうが、はるかに重要なんだよね。(もちろん、趣味が合うに越したことはないと思うけど。)


「山あり谷あり嵐ありの、人生の未知数xに何がブチ込まれてきても、このひととだったら、なんとか乗り越えていけるんじゃないか…? 逆にこのひとと一緒でも乗り越えられないような困難なら、もうそれはどうにもならないほうがむしろ自然なことなんじゃないか?」みたいな、そういう気持ちに、お互いがなれるような、、、「相性」みたいなこと。


あと、「計算式」の部分を互いに共有できていれば、「相手が喜ぶ」(喜ばせたい、相手の喜びを引き出したい)みたいな「答え」が無理なく得られるように(「アウトプット」が自分が求める数値になるように)、代入する「値」を工夫する、みたいな働きかけ方もできるよね?


わたし個人の話をすると……わたしは完全に、好きな男の色(嗜好)に染まるタイプの女なんだけども。。。

▼あずなの価値観▼

【好きな男からの「イイね」】>【換金可能な「イイね」】>【自分の好み(好き嫌いは実はかなりハッキリしている)】>【不特定多数からの「イイね」】

※上記の他に【尊敬している方からの「イイね」】もあるけれど、わたしが尊敬している方々は大抵、わたしの目的意識に照らして(汲んで・寄り添って)評価・アドバイスをしてくださることが多い気がする。尊敬する方々からの反応については、むしろ、わたしのなかでの【強力なブレーキ】的な存在かも。そういう方々から「それはちょっとどうなの…?」という反応があったら、入念に自省する。


「あずなの現況はいまいち気に入ってねえが……“計算式・骨組み”の部分には可能性があるかも知れんぞ…ちょっと来い、俺がカスタマイズしてやる!」

……などというような、ガンプラ魂(?)の襲来をお待ちしております(/ω\*)


理解し、分かり合い、働きかけ、自分の働きかけによって相手が変化していく手ごたえを得る。

これ、コミュニケーションの醍醐味だと思う。


一方的に与えられた「入力値」と「正解」とのギャップを、ひとりぼっちで埋め続ける作業。自分のなかでひとり、自分の計算式と向き合う作業。

それはとても孤独な作業だから。


無駄に長くなっちゃって、、なんかもう、思考の糸が絡まりまくってるけど……(;´▽`A``

自分なりに考えたところまで、「計算式」を書き連ねるように書いてみたので……ここから先は、未来の大事なひと(になりうるひと)と一緒に考えていけたらいいな(^-^)