”赤毛”の憂鬱

わたし、感性とか好みとか、性格とか、そういう部分では「個性的」とか、ズバリ・ハッキリと「変わってる」とかいわれることが多い感じで。。。

この感じを、第三者にどう説明すれば伝わりやすいのか、悩むけど。。。


いわば、天然の赤毛みたいな感じかな。(”赤毛”は比喩ね。)


目立つじゃない? 赤毛だと。

思春期にもなると、道を歩けば不良に絡まれる。根っからの平和主義者・事なかれ主義者でも、地毛の赤さでケンカ売られる。

校則とかもからんできて、竹刀持った生活指導の体育の先生とかに目ぇつけられる。


まあ、、、早い話が、なんていうか、みるひとからみれば、存在そのものがアンチテーゼなんだろうね。。。


で、人生、そんなことばっか続いちゃうと、ええい、もう、めんどくせーってなって、”赤毛”を黒に染めるわけ。世間様仕様に。

そうじゃないと、とてもじゃないけど、円滑な社会生活営めないから。


日常の会話んなかで、いちいちいちいち細かいところに突っかかってたら、何も話進まないしさ。

だったらもう、自分(マイノリティ)が、”黒髪”(多数派)に合わせるのが、一番無理がないやって、普通に思うし。まるくおさまるじゃん?


これはもう、いい子ちゃんぶるとか被害者ぶるとかそういう話じゃなくて、単純に、流れに逆らって泳ぐって、ものすごくパワーのいることだし疲れるし現状維持だけでも大変でほとんど進まないし、”遡上”した先になんらかの目的がない限り、基本、割に合わない行為だからなんだよね。

朝のラッシュとか想像してみて。足早に降りてくるひとたちでいっぱいの階段を、流れに逆らってひとり昇る、ってかなり大変なことだよね。道ないし。危ないし。

”順方向”で泳いでるひとたちにとっては、文字通り、波風立てる存在にもなっちゃうし。

どんなに「ふぁぃとっ♪たたかう~きみ~のう~たを~♪」とか喝入れられてもさ。やっぱ、極力やりたくないわけよ。そういうの。


だから、必要な場面でのみ、自分を出す。無用な場面では、極力、自分を出さない。


ただ、黒に染めたって、わかるひとにはわかってるのね。

なんだろ、ものすごくありがたいって感じるのは……わたしの地毛が”赤毛”であることを見抜き、そのうえで、この状況では黒に染めようっていう、ドレスコードに対するわたしの規範意識的なところまで汲んでくれて、わたしのその意思決定を尊重するかたちでコミュニケーションとってくれるひと。こういうひとといると、もんのすっごく、居心地いい。


もちろん、そこまでの洞察力を相手に求めるなんて、ものすごく身勝手な話で。あくまで、ありがたい、っていうレベルの話ね。


恋人に関してもね、「ありのままの、”赤毛”のわたしを愛して」なんて、これっぽっちも思ってないの。

社会に適応しようと、30余年もがきつづけてきた、その結果の”黒髪”のわたしだって、まぎれもなくわたしだから。

”黒髪”のわたしを気に入ってくれるなら、それはそれで、全然、ありがたい。うれしい。


まあ、”黒髪”っていっても、「変わってる」って評されるくらいだから、完全に染めきれてはいないんだろうけれども…(;´▽`A`` ”茶髪”くらいかね。。。

釣った魚に餌はやらない、とばかりに、仲良くなってきたらいきなり”赤毛”を振り乱し始める、とか、そういうことは皆無だと思っていただいて大丈夫。安心してくだされ。

ただね。

人生のパートナーとなれば、わたしの”黒髪”(”茶髪”)は、”赤毛”を染めた結果の、この色なんですよ、っていう、そこのところは踏まえておいてもらったほうが安心かな。輪郭としての知識だけでもいいから。


後から、「ああ、あのときあずながムダに力説してたのは、こういうことだったのか…」って思い出してくれるだけでもいい。

山あり谷ありの人生、髪を染めてられないような時期だって、こないとも限らないし。


どんな状況になった場合に、あずなは髪を染められなくなる(染めなくてもいいと思える)のか、そういう適性やTPO意識の部分まで併せて理解し合えたら最高かな。

そこの部分は、相手に勝手に洞察してもらうのを期待してても始まらないし、だからこそ、わたしは今、こういうブログを書いてる。