同情と共感

「同情」と「共感」って、似て非なるものだと思う。


「同情」って、基本的には、誰にでもできることだよね。

誰にでもできる、っていうと、ちょっと語弊があるかもしれないけど。

やろうとさえ思えば。とくに、個別要件みたいなものって、必要ない。


一方、「共感」って、誰にでもできることじゃない。


もちろん、「同情」していただいて「ありがたいな」って思うこと、わたしにもあるよ。

「ああ、このひとは、わたしの立場に立って、一生懸命わたしの心情を慮ってくれようとしている。もう、その姿勢だけで、その真心だけで、心があったまる。」

お世辞抜きに、そう感じる。普段は。

そう感じるだけの余裕が、わたしの側にあるときは。


ただ、もう、息をするのもやっと、っていうような余裕のない状況においては、「同情」って、何の力ももたない。(呼吸困難というのは、余裕がないことの比喩)


「同情」はさ、それをありがたいものとして受け取るために、受け取る側にも労力っていうか、パワーが必要な感じするのよね。

ある意味、「思いやり」を受け取るにも、「思いやり」が必要なんだと思う。

受信側にも、それなりの余裕が必要っていうか。

それは、異なるもの同士がコミュニケートするうえでの、トランスレーションっていうか。


息をするのもやっと…そういうときに、しびれるような温かさで心をほぐしてくれるのは、「共感」なのだと思う。

借り物の表現でいえば、つらい思いが”何か”と出会って「おソラに還っていく」ような……。

何も報われてなどいないんだけど、なんか、報われたとでもいいたくなるような……。

冗談抜きで、共感は命を救う、と思う。わたしは。


その言葉は、自分に向けられたものでなくてもいい。

いや、むしろ、自分に向けられた言葉でないほうがいいのかもしれない。

その言葉を発したひとが、すでに故人であっても、関係ない。


人生のシビアな局面では、「共感」可能な者同士にしかできないことって、厳然としてある。

どんなにがんばっても、できないひとには、できない。どんなに愛していても。それはときに哀しい現実。


あとはもう、同情心から一緒に死んでもいいと思えるくらいの、突き抜けた強い「同情」。

そのくらいの強さがないと、絶望してるひとの心に切り込んでいくものは、何もないと思う。


でも、そんな強い「同情」が生じるような状況を想像してみると、同情する相手が強い愛の対象とか、そういう状況になるんだろうな。

だとすると、心に切り込んでいるのは、「同情」ではなく「愛情」の強さのほうなんだろうな。


結局、「同情」にできることなんて、何もないんだと思う。