愛着の根
わたし、3年くらい前に、母方の祖母を亡くしてるんだけど。
祖母は、自分自身にとても厳しく、大変な努力家で。
他人にも、おそらく同じく、厳しい目をもっていたようだけど、その表出方法にとても神経が行き届いている、そういうひとだったように思う。
「口出しするならその分、ガッチリ手助けもする」という姿勢が徹底した、話のわかるひとだったな。
同性同士ということもあるし、個人的な相性という部分もあって、祖母とわたしの間に祖父と孫娘の間に形成されたような一種のやわらかい関係はなかったけれど、とても大事にしてもらった思い出がたくさんある。
わたしの母は、良い意味でも悪い意味でも”おっかさん”的なにおいがしないひとで。(そういうところが、母の長所であり個性であるとも思うんだけど……。)
なので、そういう部分は、専ら祖母から受け取ってきたように思う。(一緒に暮らしてたわけじゃないし、あくまで部分的に、だけど。)
授業参観にきてくれるのも祖母だったし、わたしが体調を崩したときは枕元にズラリとぬいぐるみを並べ、苦い粉薬には白砂糖を混ぜて美しい小さなガラスのお猪口のようなもので飲ませてくれたり、ほんとうに甲斐甲斐しく看病してくれた。
わたしが大学進学で実家を離れる際に、鍋やら食器やら、軽くて暖かい掛け布団やら、嫁入り道具のように細やかに揃えてくれたのも祖母だったし、そっと耳に寄せたヒソヒソ声で「小説家になると自殺するから小説家にはなるな(※)」「男は口ではいいことを言っていても、パンツのにおいを嗅いでいたりするのだから気をつけろ(※)」等々、非常に実用的かつ実践的な知識を授けてくれたのも、祖母だった。
※あくまで個別ケースの私見です/良い子は真に受けないでください※
祖母が娘(わたしにとっての母)を想う気持ちの強さには、一目も、二目も、三目も置いていたし、「私用/商用」両面で、一生活者としても、一自営業者としても、祖母の「処し方」には学ぶ点が非常に多かった。
一部の価値観に相容れない部分があっても、わたしはとても祖母を尊敬していた。(その尊敬は今も変わらない)
だから、祖母には、嫌われたくなかった。
自分が大事だと思うものを、他人(家族を含む)も大事に思ってくれるとは限らない。
自分が良いと思うものを、他人も良いと思ってくれるとは限らない。
さらに家族のようにある種の”利害関係”(*)が絡む場合、互いの「良い」と「良い」は必然的に対立関係に陥りやすい。
*金銭面も考えられるけど、むしろ、「情」や「自尊」の面のほうが厄介なように思う。
それでも。
自分がおなかの底から「大事」と思えるものを守り抜かなければ、わたしの人生に「しあわせ」なんてない。
そうでなければ、わたしの人生は、わたしの人生でなくなる。
いつか、自分の選択の責任をすべて他人(家族を含む)のせいにして、人生に対するコントロール権を放棄したのが紛れもなく自分であっても、被害者ぶって筋違いに他人を責めそうで、怖い。
いつか、自分の陥った苦境に対して、ただ、恨み泣き叫ぶことしかできなくなってしまいそうで、怖い。
そんな、自分なかに打ち立てた「わたしのしあわせ」が、祖母の前では、どうしても、後ろめたく揺らいだ。
祖母が「良い」とするものに、わたしが貢献するなどということは、わりと早い段階で「無理」と割り切っていたけれども、それでも、わたしのなかで「祖母に嫌われたくない」という感情の大きさは「わたしのしあわせ」に対する矜持を脅かした。
……ばぁちゃん死んだ後のあずなは、もぅ完全っやりたい放題、糸の切れた凧ですーーー\(゚∀。 )/
なんかさ。
男のひとが、自分のお母さんについて話してるのとか、傍からみてて、たまに「ああ。このひとにとってのお母さんって、わたしにとってのばぁちゃんみたいな存在なのかなあ?」って、なんとなく、ぼんやり思うときあるよ。
だよなあ…嫌われたくないだろうなあ、そりゃぁ…って、ちょっと、古傷がうずくような気持ちになったりも。
もちろん、わたしのとはまったく異質の愛情が見て取れるケースもあるけど。。。
ねえ、愛着ってさ、無理に剥がそうとすると、ベリベリって根っこの部分が身を裂くような感じしない?
なんかさ、理屈じゃない感じがするんだよね。こればっかりは。。。
わたしみたいに部分的な愛着ですら、こんなだったくらいだから、互いに深く根を張ってるような間柄だと、きっとものすごく大変なことだよね。
だから、折り合いつけることで引っぺがさずに済むものならば、極力、なるべく調整する方向で進めたほうがいいって気がする。可能ならね。。。
うちは、さんざん試行錯誤して、結局無理だったけども……。
旦那さまが大事にしたいものは、わたしも大事にしたいし、妻としてできることは極力するつもり。
さすがに、「あなたのお母さんはわたしのお母さん」ってほど、優等生にはなれないけど。。。
0コメント