マゴコロプロトコル

……長いです。

今日も長いです。。。今日はことさら長いです。。。

お時間とお気持ちに余裕のあるときにお読みいただけますと幸いです……m(_ _;)m


ちなみに、ざっとカウントしただけで10,000字以上あった……(((((((;゜Д゜)))))))

本当に、余裕のあるときにお読みください…m(_ _;)m


~本日の(恐怖の)お品書き~___φ(。。*)

まず、本題の前に発言意図。これは、いつものくどいやつ。でも、今回はとくにセンシティブな部分を含むので、丁寧に。ブログってどっから(どの日から)読まれるかわかんないし。。。

んで、やっと本題。今回は、本題もそこそこ長い。。。


最初、「前提となる認識の共有」と「わたしの価値観・好き嫌い」に分けようと思ったのだけど、わかりやすく分離できなかった……orz


最後に、「ゆえに…」って感じで、「わたしが求める理想の関係」について述べさせていただく。

……と、こんな流れで参ります。。。ソウ、ソレハ、(((((((;゜Д゜)))))))ロングジャーニィーーー

あーゆーれでぃ??


では。発言意図から。


いつも強調してるんだけど、わたしはここで評論活動みたいなことをやるつもりはまったくない。

ただ、ひとえに。ひとえに、わたしを人生の伴侶候補としてご検討くださる方、そういう方を見つけ、その方と理解を深め合いたい。本当に、ただ、それだけ。

決して、誰かが大事にしているものをいたずらに傷つけたいわけじゃないし、ケチをつけたいわけでもないし、あてつけを言いたいわけでもない。ましてや、「どちらの考えのほうが正しく、素晴らしいか」みたいなことを議論したいわけでもない。

でも、結果的にヘイトスピーチのような内容を含んでしまう。

ここに関しては、葛藤がある。


でも、リスクとベネフィットを天秤にかけて、今回は「書く」というほうを選んだ。


「人生の伴侶を見つけたい!」という目的がなければ、こんなこと、黙ってる。当然、社会生活のなかでは黙ってる。そういう類の話。


 なぜ、わざわざヘイトスピーチのようなアプローチで書かなければならないのか?

 なるべく「東は嫌」と表現でなく「西が好き」という表現をすればいいではないか?

確かに、その通り。だから、普段はなるべくそういうアプローチの表現を採るように心がけてはいる。

受け手側の認識が書き手側にはよめないような、一対一のコミュニケーションではない場では、とくに。こういう、不特定多数が読むブログとか。


ただ、どうしても否定形で表現しないと伝えたい輪郭が正確に伝わらない、そういうもどかしさを感じることはある。

たとえば、「東は良いもの」という認識が世間一般に浸透していて、そもそもそこの認識の違いにフォーカスしてもらわないと話が始まらないような場合とか。


「西が好き」という言い方では、「ああ、(良くも悪くも、ステレオタイプの)西かぶれね。いるいる、そういうひと。俺の周りにも。あずなってああいうタイプの人間なのね」と、レッテル的に諒解されてしまうおそれがある場合とか。

そのレベルで生半可に理解(誤解)されてしまうのならば、「そもそも東西に関するわたしの好き嫌いを一切表明しない」ほうが、まだマシだったりする。

そのレベルの理解(理解、というより”知識””単なる情報”に近い)では、今後の人間関係に必要な、本当の意味での「理解」が得られていないわけで。


ひとくちに「西が好き」といっても、ときにそれは、「東」に対する強烈なアンチテーゼだったりする。

それはつまり、「西が好き」というより「非東(東でないもの)が好き」という内実があったりするわけで。


そういう場合、「わたし、西が好き」みたいな、のどごしつるりんなマイルドタッチ表現では、肝心の「断固東NGである」の部分が伝わらない。

結局、その状況に基づいた話し合いが噛み合わない、という結果は、容易に想像がつく。


まあ、そんなわけで(そういう発言意図で)、若干、ヘイトスピーチ的な要素を含んでしまうけれども、あえて、そこに踏み込んで書いてみようと。リスクはあるけれども。。。


で、やっと本題。


世の中には、

「同情するなら金をくれ」ってタイプのひとと、

「金は要らないから同情をくれ」ってタイプのひとと、

「同情も金もくれ」ってタイプのひとがいるような気がしてて。

あくまでわたしの経験の範囲だから、他にももっといろんなタイプに分類・分析できるのかもしれないけど。

理論上は、「同情も金も要らねぇ!」ってひともいるはずだけど。単純にわたしが会ったことないだけなのか、よくわかんないけど。

そこはまあ、置いといて。


でね。わたし自身は、明らかに、「同情するなら金をくれ」タイプの人間

「金をくれ」っていう表現は、ちょっと語弊があるかな。


同情するなら金をくれ」っていうか、「わかってるなら、『ありがとう』は要らないから手伝ってくれ」みたいな感じかな。

相手が、そもそも望ましくない現状に気付いていないなら、別に何も求めない(同情【するなら】)。ただ、気付いているのなら、それを問題だと思っているのならば、「ありがとう」なんて言葉じゃなくて、もっとほかにやることがあるんじゃないの?(金をくれ)っていう。


もちろん、大前提として、感謝の気持ちは社会生活上、非常に大事なものだと思ってるし、実際、「ありがとう」の言葉は日常生活のなかで意識せずに口をついて出る感じ。「ありがとう」を1回も言わない日なんて、ほとんどないんじゃないかっていうくらい。

ただね、「ありがとう」で済むとは思ってない。

「ありがとう」は、現状の均衡を図ったうえでの、プラスアルファのものだと思ってて。


今すぐに解消できない不均衡があるにせよ、その不均衡の是正に向けて、具体的な対策をとったうえでの、「ありがとう」であるべきだと思ってて。


「金をくれ」って言葉面とは矛盾するけど、基本的に、正当な理由なく誰かに一方的に何かしてもらうっていうことを、好まないのかもしれない。

相手がこちらのために犠牲になっているような状況は、こちらとしてもなんとなく気持ちが悪いし、逆にこちらが一方的に犠牲になるような状況もまっぴらごめん。そういう考え。


たとえば、メンバーのうち、1人だけに負担が集中しているのであれば、それは「感謝する」で済ませる類のものではなくて、手伝って現状の不均衡を是正すべき問題だよね?


もちろん、それぞれに個性ってあるわけで、役割分担というのは必要だろうけれども。

それならそれで、なにもアカラサマに直接「手伝う」ということにこだわらなくても、負担に応じて報酬の配分に差をつけるとか、別の部分では他のメンバーがメインでがんばるとか、不均衡を是正する・フェアにもっていく方法って、いくらでもあると思う。


そういった抜本的対策を前向きに検討することすら一切放棄して、現状の不均衡を「ありがとう」のひとことで埋めようなんて、そんな虫のいい話はないだろう、っていう。そんな考えの人間。


ただ、世の中には「金は要らないから同情をくれ」っていう考え方の方もいらっしゃる。


こういう価値観の方に対して、わたしのような「同情するなら金をくれ」の価値観で対処すると、余計なお世話になるし、思わぬところで逆恨みされたりする。ことごとくかみ合わない。


だから、基本的には、わたしはこういう方々とは極力距離をつめないように心がけている。どっちが良いとか悪いとかの話ではなくて、価値観が違いすぎるから。


他人から感謝されること、「ありがとう」といわれることに、価値を置いている方々だから、こちらの価値観(「同情するなら金をくれ」)に基づいて、勝手に不均衡を是正するようなこと(手伝い等)をすると、それはすなわち、その方から「ありがとうと言われる機会、感謝される行為」を奪っていることになってしまう。


黙々と動き、相手のほうから「ありがとう」と言われるのを待っていらっしゃる方もおられるし、なかには、積極的に「ありがとう」を集めるために、自ら演出をなさる方もおられる。


そういう演出も、こちらの価値観(「同情するなら金をくれ」)に基づいて受け答えすると、コミュニケーションが徹底的にこじれる。

一見、こちらへの「悩み相談」といった体裁がとられているにせよ、その実は「悲劇のヒロイン」「かわいそうな自己犠牲のわたし」であることの「演出」だから、真心で正面から向き合って、解決策の提案などしているとガチで馬鹿をみる。


感謝の言質をとられたらとられたで、受け流せば受け流したで、後々トラブルの種にされることもあるし、わたしのような価値観の人間からすると、正直な話、もうとにかくひたすら面倒くさい。言葉は悪いけれど、面倒くさいという表現以上に適切な表現がない。


こっちからさんざん言いたい放題いっているけど、おそらく、相手だって、わたしのような価値観の人間と関わったっておもしろくないだろうし、わたしのような人間を冷血で不快なヤツだと思っておられるだろうし、「こっちから願い下げだ!」といわれても仕方のない話で、それはもう、甘受したいと思う。


世間一般では、「金は要らないから同情をくれ」派の方々のほうが、人間として魅力的だと受け止められている、そのことはよく理解してる。

ヤンデレというのだろうか、よくわからないけれど、そういう嗜好、厚い需要層があることも理解してる。

ただ、どうしてもその魅力にハマれない人間というのはいて、わたしは明らかにハマれない側の人間なんだよね。


もちろん、仕事や社会生活では、「金は要らないから同情をくれ」派の方に対してだって、ある程度の距離を保って、円滑な協力関係を築けるようにがんばるよ。可能な限り。公私の”公”の部分でみれば、魅力的な方はとても多いと思うし。

でも、自分のプライベートゾーンには一切触れてきてほしくないし、自分もそういう方の心の半径数m以内には絶対に立ち入りたくないんだよね。


「金は要らないから同情をくれ」派の方々とは、「愛情」や「信頼関係」をめぐる考えにしても、かみ合わない。


わたしが目指すコミュニケーションは、付き合いが長くなれば長くなるほど、お互いツーカーでかゆいところに手が届くようになり、お互い無用なことに神経をすり減らすようなことが減っていく状態、お互い余計な気を揉まずに相手の心地良さを維持できる状態、相手の嗜好の根本を理解していることで改善案の提案もできる状態、誕生日プレゼントの選定ひとつとっても徐々に精度が上がってくるような感じ、「相手を喜ばせたい」という真心がほとんどロスなく動力として変換される状態……そういう、互いのツボの位置を理解し合っていくようなコミュニケーションなのね。


一方、「金は要らないから同情をくれ」の価値観の方は、まったく逆で、付き合いが長くなっても交際初期と同程度に相手が自分に時間を使ってくれること、心配し気を揉む・機嫌をとる等の行為を通じて相手の関心の中心に自分がいる状態を長く保つこと、そういったことで相手の愛情を測っているように見受けられる。


だからなのかもしれないけど、そういう方々のおっしゃることには、なんというか、「芯」がない感じ。わたしにはそんなふうに感じられるのね。感覚的な表現で恐縮だけど。

たまねぎみたいに、剥いて剥いて剥いて……いくと、結局、最後に何も残らないというか。


その理由について考えてみても、そういう方々にとっては、結局のところ、相手にかまわれて(結果的に振り回して)相手の関心が自分に向いている時間そのもの、相手が自分のために右往左往してくれて、一生懸命になってくれる、そのこと自体に意味があるのであって、発言内容や行為そのものに何か求めるものがあるわけではないのだ……そう考えると、なんか妙に腑に落ちるものがある。


誤解しないでいただきたいのだけど、さみしがりやさんであること自体は、わたしにとってまったく問題ではないのね。

そうじゃなくて、問題は表現方法

「さみしい」という気持ちをストレートに表現できる(あるいは建設的に発散できる)方は、わたし、むしろ大好きなの。


わたしが苦手なのは、たとえば、さみしいときに自分を傷つけて相手の関心を自分に向けさせようとする、みたいなこと。

自分を傷つけるっていうと、極端すぎる例のように聞こえるけれど、若干ライトにみえる事例であっても「同情を誘おうとする」「自己犠牲をアピールする」って、本質的にはそういうことだよね? なんかね、押し売りに遭ってるような気分なんだよね。。。うまく伝わるかなあ…この感じ。。。


次の、「同情も金もくれ」。

んー、これは、、、たとえていうならば、、、「金の斧? 銀の斧? 鉄の斧?」って差し出してきたひとの足元をみて、あわよくば3本とも得られるようなうまい駆け引き方法を考えよう、って、それで実際にその方法を考え出せちゃうようなひと……みたいな感じ?


人数的には、莫大ではないかもしれないけれども。。。でも、案外、ナチュラルにいると思うんだ。政治力に長けたひとって。

政治力に長けたひとが、必ずしも自己利益のためにその能力を利用するとは限らないけども。


5日前(11月14日)のブログに「金メッキ」って書いたんだけど、それって、どういうことがいいたいかっていうと、下記のwikiで解説されてる「欺瞞的、作為的なコミュニケーション」みたいな話なんだよね。

欺瞞的、作為的なコミュニケーションをする人は、本心は表に出さず、トゲのある言い方や回りくどいやり方で人を責める。正面から人と向き合えないため、人を操ることで自分の望む状況にもっていこうとする。


Wikipedia「アサーティブネス」

個人的には、これ、自己防衛的戦闘用プロトコルだと認識してる。いわば、非常モード。戦争用。


だから個人的には、悪意がある相手(真心が通じない相手)から侵攻してこられた場合や、職務上必要な場合以外、基本的には使わない。


「同情も金もくれ」タイプの方がこれをやるときって、たいてい、果たすべき責任を果たさずに利を得ようとしてるんだよね。


「俺はこうしたい。こうしてほしい。」ってハッキリ自分の言葉で表明すれば、そこに責任もリスクも伴うじゃない?

他人に「こうしてほしい」とオーダーするならば、それ相応の対価、自分の側にもそれなりの対応を求められることが多い。


相手との関係がwin-winでない場合、本心を明かすことで、「利害が一致していないのでお断り」みたいに明確に断られてしまったり、「あなた、そんなことを求めてるの?!」みたいに自分が嫌悪されたりしてしまうリスクもある。


そういった「対価」「リスク」の部分の責任が生じないように、相手を動かして、自分の利になるような行動をさせるよう「仕向ける」。

あくまで「相手の意思で」。あくまで、相手の意思だ、ということにして。


もちろん、相手に判断させるってこと自体は、悪いことじゃないと思うし、むしろ、相手の意思を尊重するとか優しさとか距離感のとり方がうまいってことだとも思うんだけど。

相手との関係や、付き合いの段階によっては、相手に常にYes/Noの選択を迫るようなコミュニケーションは、ある意味、オトナじゃないともいえるし。


恋愛初期の、単刀直入にはいえない、手探り・手探り、みたいなのもあったりするし、実際問題、相手のこと(価値観とか好き嫌いとか快不快の判断基準とか)がわからない状態だと、自信をもって踏み込めない部分もあるし……。ある程度、選択肢を示しつつ、相手の出方を見つつ、、、みたいにならざるを得ない部分もあるけれど。。。


でも、そういうのとは少し違ってて。なんだろう、、、相手をそうするより他に選択肢の無い状況に追い込んで、あくまで、相手の意思、ということにしてサインさせる、みたいなこと。


たとえ理不尽なことでも、自分側の欲望としてハッキリ提示されるなら、相手側もYesとかNoとか、折衷案の提示とか、それが思いつかなければ自分の側の譲歩ラインの明示とか、いろいろやりようがあると思う。

でも、「え? そんなこと求めたつもり、ありませんけど? それはあなたが勝手に気を利かせてやっただけのことですよね?」みたいな逃げ道(グレーゾーン)を自分側に担保したうえで、曖昧な(100%利己的な)非言語コミュニケーションで追い詰められると、やられる側は身動きが取れなくなる。


そこで、相手側が毅然と明示的コミュニケーションの姿勢をとると、「感謝の気持ちがない」「何様のつもり?」「自分だって迷惑かけてるくせに」等々の否定評価、人格否定アプローチで徹底的に叩く。もう、政治だよね。


そういうふうに、人間関係のなかに、むやみやたらと「グレーゾーン(相手への思いやりに端を発した”余地”ではなく、100%利己的な動機によるもの)」をつくりたがるひとが、わたしはすごく苦手なんだよね。


明確なルールのないグレーゾーンのなかでは、うまく立ち回る政治力に長けたほう、立場が強いほう(※)が圧倒的に有利、そして、正直者や、相手への思いやり・誠意をもった側のほうが不利になるでしょう?

 ※親子関係では、母親と幼児なら、母親のほうが立場が強いよね。恋愛関係では、惚れた側と惚れられた側なら、惚れられた側のほうが立場が強いよね。


自分の立場が強いことを自覚して、グレーゾーンを意図的につくり出し、常に自分が「得をする」ように采配する。

そこを無自覚にやってしまうひとが、いわゆるパーソナリティ障害、っていわれる方なのかもしれないけど。


そういうひとって、魅力的なことが多いよね。

インターネットをめぐっていると、ときどき、恋愛テクニックの指南みたいなので、ダブルバインドを意図的に使う方法を紹介してあったりする。

恋愛テクニックとしてそういうものが紹介されているっていうのは、とりもなおさず、そういう方々が、ひとを惹きつける魅力をもっているということだよね?


ただ、どんなに魅力的であれ、そこにハマれない人間というのはいるわけで。

世の中には尽くす側と尽くされる側が固定化した関係というのもあるようだし、それはそれで(よそさまはよそさまで)いいと思うのだけど、わたし自身はそういう人間関係を望んでないんだよね。


世の中には、いろんなかたちの愛があってしかるべきなんだと思う。

わたしにはよくわからないけど、「とにかく、尽くしたい、尽くすことで自分の存在価値を実感したい」みたいな需要もあるようだし、そういう方が「愛情を惜しみなくガンガン注いでくれ。愛情を際限なく飲み干したい!」ってタイプのひととカップルになれば、ある意味、win-winで双方報われるんじゃないかな?


巷では「共依存」なんてイカツイ名前がついてたりもするけど、当人同士が個性を発揮しあえて、それが愛というポジティブなかたちで昇華されているのであれば、それはそれでいいんじゃないかな?

当人同士がそれでいいなら、別にいいんじゃないかとわたしは思うんだけど。外野の人間が、なんだらかんだら口出しする必要も権利もないよね?


ただ、そういう「一対一の関係において、双方の合意があってはじめて成立しうるもの」を、寝室(ふたりだけの世界)の外、第三者のいる場所(パブリック、共有スペース)へ持ち出してしまったり、嫌でもその環境から逃れられない・立場の弱い人間に対して、合意をとらずに自分の欲望をナマの状態でぶつけちゃったりすると、それは「ハラスメント」として糾弾されるんだと思う。


なにも「寝室内」でなくても、「家庭内」ならそれでいいんじゃない?、というかもしれないけど。

でも、ひとたび子どもができたら、「家庭」はふたりだけのプライベートゾーンじゃなくなるよね?


昔から「夫婦喧嘩は犬も食わない」なんていうくらいで、ホレタハレタを一通り経験したオトナの第三者でも、夫婦関係なんてもんは外野からは到底わからないもので。

ましてや子どもにそれを理解しろなんて、理不尽もいいとこで。


その夫婦関係の「前提」となっているさまざまな要素……両親双方が自身の責任のもとに関係の継続を選択していること、その複雑怪奇なギブアンドテイクやジェンガもビックリの絶妙なパワーバランス……そういう「前提」が揃ってはじめて、父は母に「ソンナコト」をしていいのだということ。

そんなフクザツな「前提」を、子どもに理解しろというほうが無理。


「前提」抜きで、単純にアウトプットだけを子どもの目に晒してしまったら、子どもは混乱してしまうよね。

さらには、「パパがママにそういうことしていいんだったら、自分だってひよこ組のミサキちゃんに、同じことしていいんだ」って間違った学習しちゃう危険性だってある。


どんなに社会的には評価されがたい関係でも、大人対大人の風通しの良い間柄で、双方の合意がとれるなら、それはそれで奇跡の邂逅だと思う。


ただ、ふたりの関係はあくまでふたりの関係として、一対一の範囲にとどめておくべきで、第三者、ましてや子どもを巻き込むべきではない。わたしはそう思う。

子どもに向かって、旦那さまに関する解決するつもりもない愚痴を延々と吐き続けるくらいなら、「もう、別れちゃえば?」。子どもは痰壷じゃないんだから。


で、結論めいたことをいえば。


わたしは、「同情するなら金をくれ(≒同情が生じるような不均衡状態は前向きに是正していこう)」の価値観で一致できる方と、パートナーシップを築いていきたい。


「男である俺に尽くしてほしい」というニーズがあるなら、「尽くしてほしい」で構わない。「常に俺第一優先でかまってほしい」なら、「かまってほしい」でいい。

ただ、そのニーズの表現方法。


わたしは、言責を伴うかたちで「俺に尽くせ!」とハッキリ主張できる男性が好き。

自分が主張すると同時に、わたしの言い分にも耳を傾けてくれる男性、ふたりのワガママの落としどころを、フェアに決着できるような相手がいい。

ふたりの間でだけ成立するかたちの愛を、寝室内限定のものとしてしっかりコントロールできる、自覚的で抑制のきいた男性が好き。


自分の我を、ナマの欲望を、ところかまわず撒き散らして生きているような方、自分の魅力や能力を悪用してはばからないような真心の通じない方、そういう方を、わたしはプライベートのパートナーとしてみることができない。

(もちろん、そういった方々の、社会においての業績や能力は、お世辞抜きでリスペクトできる。ただ、プライベートで自分が付き合いたいかというと話は別。)


わたしの場合、「金は要らないから同情をくれ」派の方々と接してると、コミュニケーションを重ねれば重ねるほどに心が擦り切れて、磨耗していくような感覚に陥ってしまう。


「同情も金もくれ」派の方々と相対した場合は(深く関わったことがないから、さわりの部分しかわかんないけど…)、なんというか、感覚的にいうと、こちらの誠意を掃除機で吸い取られていくような感じがする。

こちらから示す「誠意」や「真心」は、すべて「つけいる隙」に変換されてしまうというか。。。

譲り合いの精神でこっちが譲れば譲るほど、そこにつけこんで侵攻してくるような、そういう反応に遭うと、なんかもう、一発で引いてしまうんだよね。。。


こういう部分に警戒しなくちゃいけないから、生き馬の目を抜く社会のなかでは、斧を1本ずつ出して相手を試してくようなアプローチにならざるを得ないのだと思うけれども。。。


ただ、わたしは、家庭内を戦場(パワーバランスゲーム・駆け引きゲームの場)には、したくないっていうか。

わたしはそういう家庭を望んでないんだよね。


確かに、生き馬の目を抜く社会では、政治や駆け引きが必要な場面もあるかもしれない。

ただ、家庭内に政治は要らない。わたしはそういう考えの人間。


家庭内では、アサーションしたい。アサーションできるひとと、人生のパートナーシップを組みたい。

帰ってきたとき ホッ とできる、安心できるアジトのような、マゴコロプロトコルが通用する家庭を築きたい。


ごく自然に、気負わず素直な気持ちで愛情や誠意、真心を示すことができて、たとえどんな反応であれ、それが真心で打ち返されてくるような、そんな関係を築いていきたい。