牡蠣と苺と同調圧力

芸術は自己顕示欲と密接な関わりをもっていると思う。

(まあ、芸術に限らず、なんでもそうかもしれないけれど。)


この自己顕示欲とうまく付き合うことができれば、発信側でも受信側でも、芸術をもっと豊かに味わえるのだろうな。


正直にいうと、(というか、いつも正直にいい過ぎてすんません・汗)3年ほど前に私生活が崩壊してから、わたしは他人の自己顕示欲を上手に受け入れられなくなってしまった。

芸術関係の「好み」自体は、自分のコンディションにあまり影響を受けないのだが、「自分好みではない表出方法」に対する許容値が、明らかに低くなっている。


ひとえに、精神に余裕がないのだ。


それでも、「自分好みでない方法で表出された自己顕示欲」に出会うだけなら、たいした実害は(今のところ)出ていない。

自分に余裕がないときはできるだけ”遭遇”しないように工夫すればいいし、好みでなければ単純に黙っていればいい。


今のわたしにとって一番厄介なのは、「同調圧力」との付き合い方だ。

わたしはもともと、同調圧力に反発してしまうタイプ。


たとえば、わたしは生の貝類が大の苦手なのだが、生牡蠣好きのひとから

「わたし生牡蠣が好き!!大好き!!! 生牡蠣のおいしさがわからないなんて、あずなちゃん絶対、人生損してるって!!!」

↑こういう表出方法、めっちゃわたし好み☆

といわれれば、不快感ゼロで

「ええ~~、わたしは牡蠣より苺だよ! 一年中苺に埋もれたいよ」

などといえるのだが、

(たいてい、こういう場合は、わたしが「牡蠣は嫌い」と自己主張しても受け止めてくれる。)

「ねえねえ、●●さんは苺嫌いなんだって。女子としておかしくない?」

みたいなことをいわれると、無性にイラッとしてしまう。


上記のような、率直な部類の同調圧力ならば、まだいい。

話し手も「わたしの気持ちを、わかってよ!!」と自覚しているし、反応するこっちも「同調圧力かけてこないでよ!!」という認識の下で反応できる。


(わたしにとって)一番厄介なのは、同調圧力のかけ方が巧妙で、わたしが気づけないケース。

あるいは、話し手自身が、自分が同調圧力をかけていることに気づいていないケース。

(わたしも意図せずやっていることがあるかもしれない…てか多分ある・汗)


そういうふうに、一見同調圧力と見えないかたちで溶け込んでしまっていると、受け手であるわたしのなかでも、フィルタリングがちゃんと作用しないのだ。


顕在化しないかたちで同調圧力が示され、

反発するこっちも、なにがなにやらわからぬまま、

不顕在に、それに対する不快感を表明してしまう。

ノーコントロールで圧力をかけ(意図がない場合)、

ノーコントロールでそれに反応する。

……き、危険すぎる!!


ノーコントロールでの反応については、浴びせてしまった方に申し訳ないという気持ちもある。


どういうことかというと、わたしのなかには「自分の感覚が理解されない」という鬱屈が渦巻いていて、たまたま貧乏くじを引いた目の前のひとが、「過去に同調圧力でわたしを傷つけたひとたち」の分まで責めを負わされるケースもあるからだ。

コントロール下で表出する分に関しては、そのひとに対する分だけをぶつけるように努めるが、未分化な状態だと、積年の怒りがひとりに対して一気に噴出しかねない。


話を芸術に戻そう。


極私的に「理想の芸術」を表現するとすれば……

 大多数が眉間にしわ寄せて耳をふさいでいて

 そんなかで たったひとり が

 異常に恍惚となってノリまくってる

そんな図。


同調圧力が

そのひととわたしの間でだけ

霧消する夢想。


まだ、若くて意欲に溢れていた頃のわたしが望んでいたこと…

それは、

 “(たとえ全人的わたしを愛せなくても)わたしの「部分」を

 「まごころで」愛してくれる人々”から

 少しずつ仕事(生活の糧)をもらう

ということだった。


しかし、人生の追い詰められた局面で、わたしがたったひとつ求めたこと…

それは、

 ”ただひとりのひと”から

 「これは自分以外のだれにもみせない」といわれ、

 密室でじろじろみられ、

 そのひとの棺に入れられて

 そのひとと一緒に燃え落ちるようなものをつくる

ということだった。


「”ただひとりのひと”から、舐めまわされるように愛されるものつくりたい」というわたしの屈折した欲望も、「過去に同調圧力でわたしを傷つけたひとたち」への静かな憎しみの発露なのかもしれない。