たったひとつのパーマネント

風通しがいいって、大事なことだなあって思う。

流動性を高めることで、ミスマッチの関係のなかで自分や相手を損なう、っていう不幸事例が減る気がするのね。


人間誰しも持ち味ってあるわけで。その良さを認め、引き出してくれる相手と付き合うのが、いろんな面で、一番いいんじゃないかなあと思うんだよね。。。

めぐり合うのがむずかしいけど。。。(;´▽`A``


たとえばさ、自分のことを買ってくれていない上司に使われる、って、職業人としてこんなに不幸なこと、ないと思わない?

せっかくなら、自分をとことん使いこなしてくれる、微力ながらも、というか微力だからこそ、自分が持ちうるチカラを最大限に引き出してくれる相手に使われたいっていうか。


そういうのって、上司のマネジメント能力とか、そういうスキルに依拠する部分も、もちろんあるんだと思うけど。

でも、そういう「高い/低い」のモノサシとは別の、相性みたいな指標もあるじゃない?


上司が採用に関われるような立場のひとなら、他ならぬ上司自身が心から「この子を!」って思える部下を採用するんだろうけど。でも、そういうことが可能な職場ばかりじゃないだろうし。


そこへいくと、「家族」なんて、自分では選べない人間関係の最たるものだなって思ってて。

子どもは親を選べないし、親だって、厳密にいえば子どもを選べないわけで。

お互い、偶然にあてがわれたような関係性を、必死になって維持し合ってくわけで。


「親は子どもを愛しているものだ」って何の屈託もなく言い切っておられる方をみると、ご自身の親子関係が、実子と実父母の相性が(たまたま)良かった幸運事例に過ぎないのだということを、認識されていないんじゃないかな??とか思ってしまう。


もちろん、未成年の子どもは、まだ自分で自分を取り巻く環境をどうにかすることができない状態におかれているわけだから、今後子どもができたら、相性が合おうと合うまいと、親として考えうる最善を尽くすつもりだけれど。

ただ、その”最善”の考え方にしても、子どもが将来、何かを欲した際に、それを実現する(手に入れる)ことができるように、そのために必要な基礎的な力とか適性に応じた得意技とか、社会のなかで自分の居場所を見つけ、他者と共存するために最低限必要とされる知識とか能力とか、そういう部分になるのかなあ、とは思う。


成人したら、自由と責任を手に、親からは独立していくようなイメージをもってる。もちろん、その後もお互いに交流したければ交流すればいいと思うけど。そこは相性次第で。


「機能不全家庭」っていう言葉があって。

それ聞いて、いつもわたし、思うんだけど。「機能”万全”家庭」ってもの自体が、幻想というか、幸運というか、必死の努力の果てに実現できる「理想像」みたいなものに過ぎないんじゃないかって。


それを実現しているご家庭っていうのは、アクロバットみたいなミリ単位のさじ加減で成り立ってる、奇跡の均衡なんじゃないかって。

実父母と実子の相性の良さとか、家族構成員全員の心がけとか、家族を取り巻く社会情勢とか経済情勢とか。そういう諸々の幸運や、条件や、努力……その、どれが欠けても崩れてしまうような、繊細なバランスで成り立ってるんじゃないかって。


そもそも、血縁関係に何かを期待すること自体、無理ゲーなんじゃないかな、って。うまくいけばラッキー、くらいなもので。

だって、お互いにお互いを選んだ関係じゃないんだから。


もっといえば、人間、選んで自分に生まれてきたわけでもない。


相手を損ない、自分を損なうことが多い気がするのね。そういう、お互いに自分の意志で選べなかった関係性に縛られたりすることって。


そんな、選べないことだらけの「家族」のなかで、唯一、たったひとつ、自分の意志で選び取ることの可能な関係が、「夫婦」なんだと思う。

お相手を選んだという、自分の決断に責任をもちたいし、もつことができる。そこに対してなら。きちんと。

お相手にも、あずなを選んだという、ご自身の決断に責任をもってもらいたい。きちんと。


「わたしであること」は放棄できないけれど、「愛するひと」「ともに生きる伴侶」を選ぶことはできる。

そこには自らの意志があり、その決断に自ら責任をもつことができる。


わたしにとって「人生の伴侶」が大きな意味をもつ理由は、そこにあるのだと思う。