中也の海。

もう、ずいぶん昔の思い出なんだけど。

あれは、海ほたるパーキングエリアから、何気なく洋上を見渡した瞬間のこと。


中原中也の「北の海」っていう詩のなかの、

 海にゐるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にゐるのは、

 あれは、浪ばかり。

という詩句が、突然色彩を帯びて迫ってきた。

「これか!」と。


眼前に広がる海には、まさに、”人魚ではない、浪”があって。


中也と同じ(近似の)風景を共有できないときでも、「北の海」は充分素晴らしい詩だったし、だからこそ、ふとした瞬間に思い出せるくらいの手近さで記憶してもいたわけだけど。

その詩句の表現の的確さや過不足ない比喩の絶妙さを、本当の意味で、わたしはわかっていなかった。

海ほたるの、そのときまで。


すでに、とても素晴らしい作品だと感じているけれども、「受け手であるわたし側の問題で、その真価をまだ充分に理解していないのではないか」という予感がある、余地を感じる作品…

「いつかわたしの側に準備ができたとき、その作品からもっとたくさんのものを受け取れるはず」と思わせる迫力をまとった作品…


そういった作品に手を伸ばし、辛抱強く向き合いたいと思うのは、期待を裏切らなかった数々の名作との幸福な出会いがあったから、なのかもな。

成熟して帰って来た読者を優しく迎え入れるような、懐の深い作品。

そういう作品とは、幾度も出会い直す気がする。人生のあらゆる瞬間に。