心を満たすこと と おなかを満たすこと

わたしのなかで、ひとと一緒にごはんを食べることと、ひとりでごはんを食べることって、まったく別の行為。

他のひとって、そこらへん、どう感じてるんだろ? わたしと同じように感じてるひとって、いるのかなあ。


およばれやおもてなしは、本当にうれしい。

この言葉には、何の嫌味も社交も含まれてないよ。文字通り、それだけの純粋な意味で、「たのしくて、うれしい」。


なんというか、それはわたしにとって、食事というより、やさしさの「交感」、に等しい。「交感」は、長い目でみれば「交換」であったり。


一方、ひとりで食べるごはんは、純粋に「食事」。

そこには、生き物としてのわたしの食べる悦びがある、そんな感じ。


味わう場所も、微妙に重なってて、微妙にずれてる。

およばれや会食では、舌と「気持ち」で味わっている気がする。

上滑りの美辞麗句に聞こえて、正面から受け取ってもらえないならば、ちょっと乱暴な言葉に言い換えようか。

舌と、「気分」「相手への感情」で味わっている。


一方、ひとりの食事は、舌とおなか、その他の感覚が食べることに遠慮なくなぎ倒されたときだけの、力強い振るえ方をする。


おもてなしの食卓でやりとりされているのは、「まごころ」そのものだって感じることもある。

ここに並んでいるのは、まぎれもなく「まごころ」であって、「食べ物」はその媒介者に過ぎない、と。(決して食べ物を粗末にしているわけではないし、そこにおいて、食べ物はむしろ限りなく大切にされている。)


美しいしつらえに感動することもあれば、「さあ、遠慮なく、くつろいで!」と目の前に扉がバーンと開かれたようなあたたかさに包まれることもある。

「あ、こんなところに隠し包丁入ってる」

「突然のシチュエーションで待たせもせずにこれほどのものを…」

「キリッと冷えてる!」

「出席者の好物が考慮されてる」

「万人受けする範疇で、隠し味が利いてる。バランス感覚キラリだわ~」

「とりわけやすいようにスプーンこっち向けてくれた」

「わたしもおもてなしする際はこんな点、真似したい」

「立地や予算や好物やメンバー構成、もろもろ考えて店選びしてくれたんだ…」

みたいに、思考がいろんな感動と学習を行き来しながら、料理を味わってる。

食後は、心が満たされている。


ホンネのホンネでいえば、おなかの感覚では「食後感」がない。

「食べ物」がおなかに入っていく感覚が無いから、たいてい、自分のキャパシティ以上に食べ過ぎる。外食の「1人前」は、たいていわたしには多過ぎる。


「およばれ」のごはんと、「食事」のごはん。


かつては、わたしにも「その中間」があったかな。。。心を許している相手と、ふたりで食べるごはん。

なんだろうね、、、社会性と身体性が交錯しながら共存してる感じ、かなあ。

心とおなかが同時に満たされていく、そのときにしかない感覚。


「やすらぎ」という基盤をもつことで、はじめてみえてくるもの、はじめて感じられるものって、たくさんある気がするな。