2>1 / 1+1<1
なんかね、わたし、人付き合いを、「そのもの」としてなかなか楽しめない感じがある。
で、「社交的」っていわれてるひとと自分では、何が違うのかなあとか、考えてみたのね。昔。
たとえばさ、よく接客業の面接とかで「わたくしは、ひとと接するのが好きで…」みたいな志望動機とか、あるよね?
あの、「ひとと接するのが好き」という方は、「”不特定多数の人々”がデフォルトで“好き”に設定されている」感じなのかな?と想像してみたの。(合っとるかどうかは知らん。)
“好き”という立ち位置から入って、そのなかで個々に「この人は、嫌い」という例外ケースが発生する、みたいな感じなのかなって。
そこへいくとわたしは、その正反対。。。
デフォルト設定で人間が”嫌い”。人間は怖いよ。基本的に。
その前提から入って、個々に「このひとのこんなところが好き!、すごい!」と、“好き”に転じていく感じ。
相手と時間を共有するなかで、裏向いてたトランプがハート側にひっくり返っていくような、そんなイメージ。
結果的に、白黒ついた後の「好きなひと:嫌いなひと」の人数割合をみると、そんなに人間嫌いとはいえない…かもしれない。
あとね、「ひとりでいること」に対する価値観が、結構大きく違うかなって。社交的な方々と、社交的じゃないわたしとでは。
社交的な方々は「1+1>1」って考えてる派、なんだろうなって。基本的に。たぶんだけど。(合っとるかどうかは知らん。)
「ひとりぼっちでいるよりは、嫌いな(好きじゃない)ひととでも、一緒にいたほうがマシ」、こう思えるかどうか。そこが、社交的/非社交的の分かれ道なんじゃないか、と。あずな仮説。(合っとるかどうかは知らん。)
わたしは、「1+1<1」派だなあ。「ひとりとひとり」で一緒にいるくらいなら、単純に「ひとり」のほうが、全然かんふぉたぼー。ストレスなく、満足のいく時間を過ごせる感じ。
こんなわたしだって、「ひとりとひとり」じゃない「ふたり」は、切望レベルで希求しているのだけれど。
そういう「ふたり」って、これはもう、わたしのなかで、もはや「社交」とはいえないものだったりする。
まあ、職務上、というか功利的な問題、社会生活(生育環境)上の必須スキルとして、社交性を身に着けた方々もいらっしゃるんだろうな。その必要性に迫られたか迫られなかったかの違いはあるのかもしれない。そこはおいといて。スーツ脱いだ後の、ハダカの心の話、ということで。
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