子どもになりながら、大人になる
わたしって、物心ついてから思春期くらいまでずっと、「他人(家族を含め)とわかりあう」ことを放棄していたように思う。
つまり、人間関係については、ほぼ、「うまくやる」ことしか目指していなかった、っていうか。
「うまくやる」なんて表現つかうと誤解されちゃいそうなんだけど……「うまくやる」といっても、決して、だまして貢がせるとか、要領よく立ち回って利益を得るとか、そういうことじゃないよ。
だまして貢がせるどころか、むしろ、人間関係において「借り」をつくることに、根深い恐怖心がある感じ。
若い頃はとくに、甘えるべきところできちんと甘えられないために、うまくいかなかったり、一部の大人から毛嫌いされたりすることが多かったくらい。
なんだろ、「うまくやる」っていうのは、いうなれば、「一方的に環境に適応する姿勢」みたいなこと、かな。
相手にもっと自分のことを知ってもらいたいとか、相手のことをもっと知りたいとか、そういう意識に乏しい感じ。
で、まあ、ずっとそんな状態だったんだけど。。。
思春期頃になって文通相手ができて、そこで初めて、「他人とわかりあう」という意味での「コミュニケーション」を経験したように思う。
さらにその後、地元を離れて、人間関係を含め、世界が格段に拡がって……リアルな人間関係でも「わかりあうコミュニケーション」を経験した。
相手次第では、自分にもそれができる(手紙だけでなく)のだということが、そのときわかった。
で、就職して社会に出てみると、それまでの対人関係の基本姿勢(「うまくやる」)では、目的や責任を果たせないな…って場面も多くなってきて。
いわば、必要に迫られるようにして、多種多様な、さまざまなコミュニケーションを経験するようになったかな。
こうやって時系列に綴ってみると、「あずな、多少なりとも成長した?w」「それなりに大人になってるw」って感じなんだけど。
でもね、なんか実感としては、逆なんだよね。
変な言い方なんだけど、「子どもの自分が目覚めてる感」みたいなのが、すごくある。おかしな感じなんだけど。
それこそ、そんなことはたち近くにもなって…の話なんだけど。
なんかこう、とことん、ひとと深く関わるような経験をしてみてね、目が覚めるように世界の美しさとか、ひとつひとつの物事の楽しさを、知り直した感があるのね。
「ああ、ごはんって、こんなにおいしいんだ」とか。「ああ、花火って、こんなにきれいなんだ」とか。もちろん、食べ物だって花火だって、初めて触れたわけじゃないんだけど。
いままで、わたしは一体、何をみてきたんだろう?っていうくらい、世界の瑞々しさに目を見開かされた感じで。
いろんなものごとを楽しむ、「基盤」みたいなものがある、っていう感じかなあ。
その「ベース」があるかないかで、世界って、こんなにも違って感じられるんだ、って。
あと、いろんなひとに出会ってね、とくに仕事始めてからかな、接したひとたちから、自分のいろんな一面を(逆に)教えてもらった感じ。
なんだろ、
「とことん受け止めてもらえると、わたしって、こんなふうに笑うようになるんだ(驚)」とか。
「このひとならわかってくれそう!!って感じたとき、わたしって、こんなふうに他人に甘えたりするんだ(驚)」とか。
「ちゃんと責任が取れるひとのもとでチョロチョロさしてもらってるとき、わたしって、こんなに素直になれたりするんだ(驚)」とか。
「心の底から何かを欲して、誰かとその理想像を共有できたとき、わたしって、こんなにも向こう見ずにアグレッシブになれるんだ(驚)」とか。
仕事とか、基本的に非力な立場から自分以外を動かして何かをするとなると、「うまくやる」の基本姿勢でいつも笑ってる、というわけにもいかなくて。
そのぶん、かなり敵もできたし、泣かしたり泣かされたりもしてきたけれど……
反面、ひとつひとつの経験やコミュニケーションから得られるものも、格段にプレシャス(?)になったように思う。
ひとつひとつが人生観に大きく作用するような、魂のカケラを交えたようなコミュニケーションっていうか。
まだ、いるのかなあ。わたしの知らないわたし。なんか、いそうだな、いっぱい。まだ。もう33ちゃぃですけど、まだ(笑)
ちょっと冗談ぽくなったけど。真面目な話。
これから、伴侶となるひとに接していくなかで、これまで味わったことのない感情が自分の裡にたくさん目覚めてきたら、なによりしあわせだな。
わたし自身、伴侶がどんな表情も安心して見せられる女でいたいな。
ひとりで生きているときには見つけられなかった人生のよろこびや表情を、これから、伴侶とふたりで、たくさん見つけていきたいな(*^-^*)
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