やむを得ず、俺流。

今日は、子育てについての抱負みたいなものを語ってみるー\(^-^)/

(無論、まだ具体的な予定はないんだけどね……(^▽^;))


もちろん、これはあくまで、現時点での抱負ね。旦那さま側の考えもいろいろあるだろうし、それに、実際子育てが始まってしまえば、予想や理想は、良い意味でも悪い意味でも覆されることの連続だろうし。。。常に子どもと向き合いながら、夫婦で話し合いながらの軌道修正が必要だと思う。そのたたき台みたいなつもりで、とりあえず、わたしの考えを書いてみるねo(^-^)o


こういうこと書くときは、まず、「子育てに対する、わたしの基本姿勢」みたいなとこから書き出すのが理想的だと思うのだけど……ま、ブログなんてどうせ、どこから(どの日から)読まれるかわかんないし、単純になんか疲れちゃうし(^▽^;)、書けるところからリリースしていくことにするー(^-^)/

んで、今日いいたいことの、結論だけサクッというと……

「子どもが自分(たち)と違うタイプだった場合、早期に自分(たち)以外のメンターさんを見つけてあげたい。たとえ、そのメンターさんと子どもが強い絆を築いても、親としての嫉妬の心は抑えたい。ただ、親として『子どもの行動の結果、その責任は親である自分たちがしっかりとる』という意志表示を明確にする(実際に責任も取る)。」

……みたいな感じ!(全然サクッとしてなかったね…(;´▽`A``)


こういうことは、前提となる共通体験のない方に対して説明する(ピンときていただく)のは難しいので、まずは、コミュニケーションの下地づくりとして「やむを得ず、俺流。」の話から!


「俺流」については、おそらく説明不要だと思う。(まあ一応、辞書などでお茶を濁しておきましょうか……)

オレ流の英語・英訳 - 英和辞典・和英辞典 Weblio辞書


ここからが、わたしの持論になるんだけれども、、、「俺流」といっても2種類あると、わたしは思う。

「超人的・天才的、俺流」と「やむを得ず、俺流」。このふたつ。


世の中には、「超人的・天才的、俺流」ってひともいるらしい。

たとえば(聞いた話でしかないのだけど…)、母国語感覚で難しい数式などを操ることができて、どんな数学の難問も、問題をみただけで解答を パッ とひらめいてしまう、凡人が「あーして、ここがこうなって、こうなるから、こう」みたいに順を追ってマスターするところを、ピン! とセンスで飛び越え、一発解決してしまう、そういう天才肌型の「俺流」というひとも、世の中には存在するらしい。それは、素直にそうなんだろうな、と思う。


ただ、そういうひとはごくまれだと思うし、「俺流」といわれているひとのなかには、結構多数、天才以外の「やむを得ず、俺流」のひとがいるんじゃないかと。

で、「やむを得ず、俺流」って何だよ?という話なんだけれども……


身近なところに、自分と似たタイプのプレイヤー(大人・兄弟等の仲間)が見つけられない状態で育ってきたために、あらゆることを自力で試行錯誤してきたタイプ、必要に迫られて何らかの技能を身に着けた結果が「俺流」だった……みたいな。

「そもそも、セオリーが不要」という天才ではなく、「身近な(入手可能な)セオリーがフィットしなかった」タイプの人間。こういうひとたちは「やむを得ず、俺流」にならざるを得なかったのだと思う。


なんだろうね。。。いわば、「他人からアドバイスを受けてそれが報われた経験に乏しいひと」、というか。。。


たとえばなんだけど(あくまでたとえ話なので、詳しい方からするとツッコミどころ満載だと思うけど…(;´▽`A``)

たとえば、同じ楽器をやらせるにしても、メソッド組んであげて、基本的なことをひとつひとつマスターしながら、徐々に完成形に近づくよう指導してあげるほうがいい子もいるだろうし、逆に、「先生がやってみせるよー! ハイ、まねしてごらん」と、まず完成形を見せてから必要な要素を拾っていくような指導方法が合う子もいるんだと思う。きっと。

それはもう、良し悪しではなく、タイプなのだと思う。だから、問題は、指導者側が「この子にはこう教えたほうがいい」と気付けるかどうか、にかかってくるのだと思う。


たとえば、「うまく弾けない」という現状があったとして。ひとくちに原因といっても、そのつまずきのポイントにはさまざまなものが考えられると思う。

ここで仮に、「うまく弾けない」というとき、9割の子どもについては「素早く指を動かす」という点がつまずきの原因だ、としてみる(あくまで仮定の話ね)。

そういう場合、とくに先生自身が昔、9割方の子たちと同じタイプだった場合、「うまく弾けない→運指の練習をしましょう」という指導がされがちだと思う。まあ、そりゃそうだよね。だって、9割の子はそれで上達するんだから。先生自身も、その練習で上達してきたんだから。


ただ、残りの1割の子については、「素早く指を動かす」という部分につまずいているのではないわけだよね。上達しないのには他の原因がある、そういうケース。

そういう場合、運指の練習を重ねても重ねても、一向に上達しない。まあ、当然だよね。。。原因はそこじゃないんだから。


その子どもをよく知らず、「うまく弾けない」という現況だけをみている大人は、その子に対して「練習不足」「努力不足」「やる気がない」「ダメな子、やってもできない子」という判断を下すかもしれない。

そして、子ども自身が「自分がどこにつまずいているかまでは分析できないが、たぶん、運指の問題じゃない」と薄々勘付いている場合、運指に対するアドバイスを受け流して、運指以外の、別の要素を手探りで修正しようと試みるかもしれない。その様子を見た大人は「ひとのアドバイスを素直にきけない子。だからいつまでたっても上手にならないんだ」と判断するかもしれない。


インターネット等でときどき、「昔、そういうタイプの子どもだったんだろうな」と思われる方の文章に出会うことがある。スポーツ選手のインタビューを耳にして、ああ、この方もそうだったんじゃないかな、と思うこともある。


そういう方々がどうしてきているのかなと思って、その発言を意識したりしていると、たいてい、自分自身で膨大な試行錯誤をして、経験の”母数”を確保し、そのなかから自分なりの経験則を見出し、手探りで”正解の法則”を探っていく、そして自分の判断でその経験側を敷衍していく……こういうアプローチを採られているように思う。そういうふうにして、「やむを得ず、俺流」は形成されていくのだろう、と思う(発言の断片から想像した、わたしの予想に過ぎないけど…)。


でね。

先生がそういう「やる気はあるのにできない子ども」を心配して、「小指は、こう! 親指をスムーズに」といった具体的なアドバイスを個別に熱心にしてあげる、そういう状況も想定されると思う。

その先生は、個別指導で時間外の練習にまで付き合ってあげるかもしれない。でも、その子は全然弾けるようにならない。


そんなとき、その子と似たタイプの素人のお兄さんが、たまたま居合わせてその光景を目にしたとして。

「自分もこうだった。苦労した。もしかして、この子も同じところにつまずいているのでは?」とピンときて、「運指」ではなく「譜面読み」について、ほんとうにちょっとした、何気ないアドバイスをひとこと、声かけしてあげる。すると、その子のつまづきのポイント、ボトルネックが解消されて、見違えるほど一気に上達した……みたいな事態も考えられると思う。

その子は、その素人のお兄さんに、泣いて感謝するかもしれない。


でも、こういうことって、先生の視点からみると、本当におもしろくないはずなんだよね……

その子のことをずっと世話してきて、他の子から遅れを取ってしまっているその子を心底心配して、残業してまで居残り練習に付き合って。。。

にもかかわらず、その子は教師である自分ではなく、いきなり現れたそこらへんの素人のお兄ちゃんを、泣いて師と慕う……


まあ、「子どもの成長が何よりうれしい」って、一緒に嬉し泣きしてくれる先生もいるのかもしれないけど。。。キレイゴト抜きに、教師としてのプライドもあるだろうしなあ。。。


それと同じようなことって、おそらく、親子でも起こりうると思う。

根本的にタイプが違うから、アドバイスがアドバイスとして機能しない…親の一生懸命と子どもの一生懸命が、まったくかみ合わない……そういう根本的な相性の悪さ。

子どもを愛していれば、子どもが慕う相手への嫉妬など、さまざまな感情も絡んでくるのかな。。。


まあ、そんな感じで……

「やむを得ず、俺流」の原因となる要素として、「他人からアドバイスをもらい、それが報われた経験に乏しい」という話だったんだけど、あともうひとつ。


「大人から責任を取ってもらった経験に乏しい」という要素。


「他人からアドバイスをもらい、それが報われた経験に乏しい」という子でも、いざ失敗したときにその責任を大人(指示をしたひと)がとってくれるという信頼感があれば、「半信半疑だし、よくわかんないし、効果も実感できないけど、まあ、この先生がいうなら、信じてやってみよう。努力してみよう」とも思えるんじゃないかな、と思う。

そこへきて、「アドバイスを忠実に実践しても、できなければ自分のせいになる、自分が責めを負う、大人は誰も責任などとってくれない」という状況になると、話が変わってくるのかな。


「大人のいうことに素直に従ったところで、結局失敗して痛い目をみるのは自分。だとしたら、自分で考え、自分の判断のもとに行動して失敗したほうが、自分も納得できるし、次にもつながる」、子どもがそう考えるようになっても不思議ではないと思う。

自己流でやっている「過程」を大人に見られると、また役に立たないアドバイスをされて、従わないと非難されて、予定・進行を踏み荒らされるだけ踏み荒らされて、結局失敗して痛い目に遭うのはやっぱり自分……そういう「危惧(経験則)」が子どものなかに生じると、鶴の恩返しよろしく、「過程」をすべて大人の目から隠蔽する、極秘プロジェクトとして遂行するようになる……子どもがこういう密室志向になっても、まったく不思議ではないと思う。


このふたつの要素、「他人からアドバイスをもらい、それが報われた経験に乏しい」「大人から責任を取ってもらった経験に乏しい」これらがコンボでくると、おそらく高確率で、「やむを得ず、俺流」人間が完成するのだろうと思う。


でね、でね。やっとこさ、未来の話!(^-^)/

ふたつのうち、「他人からアドバイスをもらい、それが報われた経験に乏しい」の部分は、生まれながらの個性という面が強いだろうし、親が泣いたって喚いたって逆立ちしたってどうにもならないことだと思う。ここについては、子どもの資質を上手に引き出してくれる、子どもに似たタイプのメンターさんを見つけてあげることが(そしてその絆に嫉妬しないことが)、親としてできる、唯一のことだと思う。


ただ、「大人から責任を取ってもらった経験に乏しい」この部分については、親が負うべき部分だと思うから、ここはしっかり責任をもちたい!!!

……そんな感じ。子育てについての抱負みたいなの、他にもまた書くかもー\(^-^)/