洗脳騒動報道に思う

※いつもおしゃべり口調でブログを書いていますが、今回は少し改まってお話しいたします。※

今日は、「洗脳によって家庭崩壊(関係崩壊)を招いた」というような出来事が”事件”扱いで報道されるようなとき、わたしの胸に去来する思いをお話しします。


いつも以上に、本題の前の、「前提」が長いですm(_ _)m

まず「前提」といたしまして…

 このような話題にあえて触れるのは、将来を見据えた「コミュニケーションの下地づくり」がしたいからであり、そのような目的がなければ、本来このような話は極力避けたいのが本音。

 今回お話しすることは何か特定の事例を念頭に置いたものではなく、さまざまな事例に共通する一般論的な話であり、もちろん、わたし自身の個人的なこととは、直接関係の無い話である。

 わたし自身、何らかの宗教に入信した経験は一度も無い。スピリチュアル系のものにハマった経験も無い。身体のメンテナンスを他人に一任した経験も無い。(筋金入りの無宗教人間。この点については7/19のブログに詳細アリ。勧誘をされた経験はある。屈しなかった。)

という3点があります。この「前提」について、まずお話しいたします。


まず、わたしの基本的な考え方として、「揉め事の類は基本的に当事者間の問題であり、そこに頼まれもしないのに絡んでくる第三者の存在は、当事者にとっては基本的に外野(ハエ的な野次馬)でしかない」ということがあります。関わって何らかの意味がある(関わる権利を持つ、関わらざるを得ない)のは、明確な利害関係者のみだと思っています。もちろん、これはあくまで、個人的な考えです。

個別事例を”事件”化することで社会問題を浮き彫りにする、そういう使命感をお持ちの方もいらっしゃると思います。

ただ、社会運動というのは、ある意味「利害関係や価値観の戦争」という側面を持っているとわたしは思います。戦争するなら、当事者側には事前にある程度の覚悟と計算(勝算、メリット・戦果)が要りますし、当事者にその意思がないまま周囲が勝手に社会運動化してしまうのは、「当事者に益なき暴走」にもなりかねないと思っています。

当事者(少数者のメリット)を犠牲にしてでも、社会(多数者のメリット)を良くすべき(高めるべき)、と考えておられる方も少なからずいらっしゃるでしょう(自分がその当事者にならない限りは)。その考えにも一理あるとは思います。

ただ、そういったことは、わたしは、断固として、嫌です。当事者の意志が置き去りにされている光景は、第三者としてみても、ものすごく、ものすごく、哀しいと感じます。

炎上ビジネスという言葉もありますし、有名人の場合などは賛否両論言及されてナンボの、マネタイズがきちんとなされている案件もあるでしょう。

共感をおぼえた当事者から「援護射撃してください」と明確な意思表示があれば、時と場合によっては、自身の信念に照らして加担することもあるかもしれません。しかし、そういった例外をのぞいては、とくに対象が自分と同じ一般人の場合、賛否を抜きにして言及そのものを控えます。言及すること自体が、ともすれば「いじめ」への加担となりかねないという危惧すらあるからです。

ただ、当事者から「援護射撃してください」と要請があったとしても、事件の背景事情は結局のところ当事者にしかわからないことですし、基本的には、第三者が関与しても百害あって一利あるかないかだと思っていますので、よほど近しい利害関係者でない限りは関与しないと思います。

そういう考えの人間ですから、「洗脳騒動に対する評論活動」みたいなことをするつもりはまったくありません。自分の考えの正当性を主張し、第三者を説得しようなどとは微塵も思っていません。


この文章を書く目的はひとえに、「わたしを人生の伴侶候補としてご検討くださっている方(現在はお友達段階orまだ接点がない方も含め、今後、人生の伴侶になる可能性が少しでもある方)との、コミュニケーションの下地づくり」です。【←ココ重要!】

わたしを伴侶候補としてご検討くださっていない方と、この問題について議論するつもりは毛頭ありませんし、このような問題には、本質的に「答え」など無いと思っています。

ただ、人生の伴侶となれば、家族等、人生の根幹にかかわる部分でコミュニケーションギャップが生じるのは、積もり積もって大きなリスクに発展しかねません。そこを防ぎたいという意図があります。

たとえばの話ですが、「ストーカー」という言葉を耳にしたとき、ストーカー被害経験者とそれ以外の方との間には、認識に大きなズレがあることが想定されます。

辞書的な定義のレベルでは、認識の相違はさほど無いと思います。ただ、ストーカー被害経験者が発する「ストーカー」という言葉の奥には、当時の恐怖や関係者への嫌悪、再生までの苦労、ストーカー行為により破壊されたものへの思い等、膨大な背景がまとわりついているのだと思います。さらには、辞書的な認識を超えて、許せないストーカーと許せるストーカーの違い等、独自の価値観も細分化して内面化されているはずです。

なにも「ストーカー」などという物騒な言葉に限らずとも、「ピアノ」でも「就職活動」でも「モテる」でも「靴下」でも、どんな言葉に関しても、そうですよね?

そのひとが発するひとことひとこと、その背景にどんなものがあるのか、それを少しでも共有する努力し、これまでの歩みの違い、お互いが抱えてきた人生の違い、その認識のギャップを意識的に埋めていかなければ、「わかったつもり」のコミュニケーションの果てに、積み木のお城が一瞬にして瓦解する、そういう瞬間がいつかやってきそうで、それが怖いのです。

また、間近の問題として「コミュニケーションの初期段階で誤解が生じ、大切な縁を逃す」というリスクも恐れています。

先日、インターネットで「信頼関係の築き方が乱暴だと、育つものも育たないよ。芽を出したばかりの双葉にいきなり強い薬を散布したら、そりゃ枯れるでしょ」という主旨の文章を読み、なるほど、本当にそうだな、とはっとさせられました。

自分の言葉がある程度誤解無く、意図した通りに受け取ってもらえるようになるまで、少し面倒な”土壌づくり”も必要なのかな、と思っています。こちらの意図通り、誤解無く伝わったうえで、「人生の伴侶として不適格」と判断されてしまうぶんには、それはもう、仕方がないことなのかなと思いますし。


という感じで、長い長い「前提」が終わりました。。。

やっと本題です。


「洗脳によって家庭崩壊(関係崩壊)を招いた」というような出来事が”事件”扱いで報道されるようなとき、わたしの胸にはどのような思いが去来するのか。

バックリした主旨は、こんな感じです。

「洗脳」の良し悪しは別として、「洗脳」はきっかけにすぎないのではないか。

「洗脳」をきっかけに崩壊した関係があるとすれば、もともとの関係自体にも、その原因があったのではないか。

(ただし、どんな人間関係にも、弱点は多かれ少なかれあるわけで、金・権力・悪意をもった存在から組織ぐるみで、本気で、つぶしにかかられたら、大抵の関係はひとたまりもないのかもしれません。そのあたりの個別事情は、ケースバイケースだと思います。)


それまでの関係の外に「心のよりどころ」を得ただけで、急にそれまでの関係者を裏切って憎み始めるひとというのは、少ないのではないかなと思うのです。素直に考えて。

「シェルターをみつけたから急に強気に出る」という方も皆無ではないでしょうが、そのケースでは、むしろ関係そのものは「心のよりどころ」の出現以前に破綻していたと考えられます。


「心のよりどころ」をみつけたことがきっかけで既存の関係が崩壊するのは、利害関係者である周囲が「心のよりどころ」に対して、該当者の”占有権”を主張し始めるからではないか、と思うのです。

該当者が著名人等で、資産or社会的価値のある人材の場合、「利害」というのは、当然金銭面の事情も絡んでくるでしょうが、たとえそうでなくても、「愛情」や「支配権」「愛玩権(?)」等をめぐる、感情面での「利害」がじゅうぶんに想定されます。


そういった状況を、該当者の視点から想像してみると、「その昔、あの日あの時、あんなに必死に助けを求めたのに。あんなに泣いて駄々をこねて、助けを求めたのに。あの時はことごとく無視しておいて、ひとりぼっちで泣いていた私を優しく抱き上げてくれるひとがあらわれた途端、そのひとから私を奪い返そうとする。既存の関係者は、やっと手にした私のしあわせを、ともによろこんでくれないどころか、妨害しさえする」と、そこではじめて、既存の関係者に対する絶望が生まれるのではないか、と。


やっと手にしたしあわせを、関係者の(世間の)価値観から一方的に見下し、貶め、破壊しようとするひとたちに対し、「いまさら、そんなこといいだすくらいなら、あの時なぜ、あなた自身がそうしてくれなかったのか」などと、とっくにあきらめていた過去すら、無用に蒸し返したくもなるのだろう、と。


「利害関係」と「エゴ」と、渦中にあって「置き去りにされている自分の心」をまざまざとみせつけられて、深く絶望もするのだろう、と。


取り返しのつかない過去のことなどを、いまさら蒸し返したところでどうなるものでもないでしょうし(既存の関係者が話の通じる・信頼できる・安心して頼れるような相手なら、そもそも洗脳者(?)に惹かれることなどなかったはずでしょうし)、いまさら過去の問題を混ぜ返しても、関係者の誰にとっても、何のメリットもないことなど、該当者が一番わかっているはずだと思うのです。


該当者が既存の関係のなかで抱え続けてきた問題、既存の関係者が無視し続けてきた、あるいは解決することができず置き去りになっていた問題、その「解決」のひとつが、洗脳者(?)との関係だったのではないかと思うのです。


もちろん、背景事情や洗脳者側の悪意の有無、そういった個別要素は個々のケースによってまちまちでしょう。

ただ、洗脳騒動報道の基調としてありがちな、「該当者=愚か者」「洗脳者(?)=悪」「家族・関係者=被害者」という図式には、違和感をおぼえざるを得ないのです。