壁の向こうに誘うもの。

ふたりなら、何を食べてもたのしい。(だけど、)

ふたりなら、「きょう何にしようか」と考えるのがたのしい。


「結局、ゼロか100か、なのかな…」

疲れているときはつい、そんなことを考えてしまう。


もっていないひとは、どちらももたない。

もっているひとは、どちらももっている。必然的に。


「あなたは【A】じゃないから、【B】できないのよ」といわれて、ときどき違和感をおぼえることがあるんだけど、それはきっと、話者であるそのひとと聞き手であるわたしとの間にある、「【A】と【B】の相互関係に対する、認識の違い」に起因するものなんだろうな。。。


話者であるそのひとは「(自分は)【A】だから、【B】できているのだ」と思っている。たぶん。


でも、わたしは疑問に思う。

「その話者をとりまく条件が変化して、もはや【B】できなくなったとき、そのひとはそれでもまだ、【A】でいられるのだろうか」と。


リアルのコミュニケーションでは、ここで止まってしまうことが多い。

ニワトリをもつひとは、タマゴをもつ。

タマゴをもつひとは、ニワトリをもつ。

這い上がる、というのは大変なことだ。


この認識の壁を乗り越えてコミュニケーションを図るのは、双方がよほど腰を据えて「理解し合いたい」とでも思わない限り、ほぼ不可能なんだろうな。

皆忙しいし、他にやることはたくさんあって、付き合うひとだって、他にたくさんいるだろう。


なにもわざわざ乗り越えなくても、適切な”車間距離”をとっていれば”交通事故”は防げる。

それで日々は円滑にまわっていく。

わたしの場合、組織内や家族など「絶対に付き合わなくてはならないひと」ほど、”車間距離”を大きくとる。


わたしのこんな拗ねた心を温かく叱り飛ばしてくれるのは、ネット上や書籍のなかで不意に出合う、深く影のついたような言葉だったりする。


コミュニケーションの困難さ、壁、自らが(一時的に)否定される不快感を乗り越えてでも、相手のいわんとすることの真意を理解したいと思う場合、それはきっと、乗り越えた先に何らかのベネフィットがある場合、だろうな。


あるいは、

そのベネフィットが、現時点では明らかでなくても、「何かがある」という予感のようなもの、そういうものに駆り立てられる場合、なんだろうな。


その「予感のようなもの」の一番わかりやすい例が、いわゆる「恋」というものなのだろうな。