世間様と致命的にセンス合わない…

今年の春頃にね、何気なくインターネットみてて、

「世間様が評価してる店の良さが自分にはわからない。自分が気に入ってる店はどんどんつぶれてく。世間と自分はセンスが合わない。生きていてもつまらない。」

みたいな主旨の文章に出会ったの。


瞬間、ノートPCの画面に手ぇつっこんで、書いたひとと握手したい衝動に駆られたゎw

何か、それ読んで一気に目が覚めた感じで。


そっか、そうだよな、これって生きててもつまらないってことに直結するんだよな……って。全然おおげさじゃなく。全然、おおげさじゃなく。(2回言った)


世間とセンスが合わない、これって、とにかく疲れるんだよね。。。

生きてて、ふとたちどまったとき、無意識に深いためいきついてしまう感じで。。。


我慢すれば全然、何とかなることだし、だからこそ普段は我慢してるというか、我慢という意識すらすでに消失してる感じでナチュラルに我慢してるし、世間からも「その程度」のことは当然我慢することを求められてるってわかってる。そんなことは自分が一番よくわかってる。


でもね、そういう場面が多すぎると、そのストレスって塵積(チリツモ)で結構な大きさになる。で、そのひずみって、どこにもやり場のない性質のものなんだよね。


もちろん、マジョリティの皆さんには悪意もないし、非もない。同様に、自分が「ちょっと変わった感性」を生まれもってしまったことも、わたしのせいじゃない。別に、何が悪かったというわけでもない。

自己弁護してるように聞こえる? 逃げに走ってるように読める?? 逆だよ。「自分が悪かった」「こうすればよかったんだ」「反省してこれからはこうしよう」そんな解決策の見出せる問題なら、わたしは泣くほど喜んでその改善策を徹底するよ。


他人も、自分も、誰も悪くない。目の前にあるのは、自分のセンスは少数派であるという動かしがたい、厳然たる事実だけ。


たとえば。

「みんながたのしめる過ごし方」で、わたしはたのしめないとか。

でも、”空気”ってあるから、「たのしかったねー」「またいこうね!!」みたいな状況で、「次の会は、別の趣向の行事にしようよ」みたいなことは、なかなか言いづらいし、実際そんなこと絶対言わない。


なんだよ、言えばいいじゃん、って感じだよね……わたしも逆の立場だったら、100%、そうつっこむと思う。

でもね、自分の好きなことに合わせてもらったとしたら、今度は自分以外のほとんどのひとがたのしめないわけよ。自分のなかでも、結論は出てるわけ。「大半のひとがたのしめる行事のほうがいい」って。みんなが「たのしいね!」ってうれしそうにしてるほうが、自分だってうれしいじゃん? そこにはまったく葛藤なし。


だから言わない。自分の責任と判断のもとで、言わない。そのことで被害者ぶるつもりなんて毛頭ない。


でも、着実に、ストレスは「無問題以上問題未満」のビミョーさでしんしんと降り積もっていくわけ。長年降り積もった絶望感に足を取られて歩きづらい感じ。生きてて。んな感じ。


それから、実質的な問題として直面しがちな例としては、、、

100%善意のひとが、「よかれ」と思ってしてくれていること、その「行為」自体によろこべない。(「ご厚意」にはよろこべる。←ココ大事!


たとえば。

あなたの大切なひとが、あなたをよろこばせようとして、話題の店、人気の店を予約してくれて、ごちそうしてくれるような場合。


想像してみて。「あー、この店、高いんだろうなあ…」「苦労して予約とってくれたんだろうな…」みたいな雰囲気の店。そこで、あなたの嫌いな食べものがバンバン出てくるの。

(もっとも、わたしの場合、味覚の面ではあまりマイノリティではないと思う。好き嫌いも極端に多いわけじゃない。話を単純化するために、こういう例にしたよ。)


好き嫌いが分かれるものだと、「あなた、○○好き?」とか「○○大丈夫?」とか事前に確認してもらえることも多いだろうけど、世間の大多数が評価しているようなものだと、そもそも、「これを嫌いな人がいる」という発想がマジョリティ側にはない。(そこには悪意もない。


自分をよろこばせようとしてくれている、その【真心が】飛び上がるくらい嬉しくて、お礼を言う。無理しても食べる。

相手には「真心へのお礼」と「食べ物へのお礼」が混じりあって伝わっているので、「よろこんでいた」という結果をみて、「また、連れてってあげよう」となってしまう。。。

どうする? いまさらいえないよね。

まあ、それ以外にもあれこれもろもろ。。。


「じゃあさ、同じように、生得の環境・要素にアウトサイダー的な面があって苦労してきたひとと付き合えたらいいんじゃない?」


今、そう思われた方! わかってらっしゃる!!! そうなの!! そうなんです!!!

わたしがネットに期待してるの、そういう出会いなんです!!!


でもさ、、、そういう男性ってさ、絵に描いたようなマジョリティ街道をすくすく歩んでこられていて、卑屈さがない、明るい、おひさまのにおいがするような女子が好きだったりするかも……orz

身近には、そういう事例が多かったような……(泣)


ひとってさ、自分にないものをもってるひとに惹かれたりするじゃない??


かくいうわたし自身も、これまではそういう屈折したところがあまりない、どっしりと安定感のある男性につい目がいきがちで……その彼のセンスに完全にはついていけない自分に嫌悪を感じたり。。。

このへんの感覚は、吉本ばなな『キッチン』の主人公・みかげが、元彼・宗太郎に対して抱いてる感情に近いかも。


でも結局、世間様との関係同様に、彼と自分の「違い」を、常に「彼は正常、わたしが異常」と”裁いて”(彼が、じゃなくて、わたし自身が、よ)解決してたりして、煮え切らない思いが溜まってったり。

自分が大事にしているものを彼から悪気なく踏み潰されて、ちょっと哀しい思いしたり。

踏み潰されないまでも、マイノリティとしての屈辱感や小さな自負心を肌感覚として理解してもらえないことにちょこちょこストレス溜まったり。。。


彼(当時)抜きで趣味に夢中になったりしてそこらへんのストレスを発散しようとすると、「俺には見せない一面がある」みたいに真意を誤解されたり。。。

単純に、ライヴいくのとか誘ってもいいけど、彼の趣味には合わないのがわかってるから誘わないっていうだけなのに。。。(カーステレオでCD聴いてたら「ヘタウマはもういい」って消されたし。。。)


わたしの場合、大好きなものが流通のメインストリームにのってないことも多くて、感性・価値観が合うひとを同世代のなかに見つけるのが結構むずかしい。


年上世代、年下世代、物故者にまでレンジを拡げて探すと、母数が大きくなることで、見つかる可能性が上がってくる。

文章やレコード(音源)は、わたしにとって過去に遡って「合うひと」を探すための、強力なツールだったりする。

「このひとだ!」というひとに出会うと、思わず、本のなかに手ぇ突っ込んで握手したくなってしまう。


身近な場所でなかなかわかり合える相手をみつけられないからこそ、それが同時代人であれ、物故者であれ、未来人であれ(?!)、共鳴できる相手を強く求めてしまう。大切に思う。


で、趣味・嗜好の話ならまだいいんだけど、たとえば、「家族」に対する認識の違いとかね。。。

ここはさ、コミュニケーションギャップがあったら、影響が甚大な部分じゃない?


お互いが、お互いの過去や経緯、傷に思いをはせながら、相手の言葉に真剣に耳を傾け、先入観・世間的価値観を抜きにして、「世の中には自分には想像すらつかない環境がありうる」っていう、フラットな場所から相手の言い分を吸収できればいいんだけど……


対話の労を惜しむつもりはないのね。主観ばっかじゃなくて、客観的アプローチの説明も試みるし。

で、結果的にわたしの側が折れるっていうのも、まったく構わないの。こっちが彼の価値観に可能な限り合わせるってのは、全然やぶさかじゃないわけ。


でもね、この部分でコミュニケーションギャップがあると、大きな誤解を生むし、伝え方を間違えると、会話の内容よりも話者の人格が疑われてしまいかねないデリケートな問題だからなあ。


「こいつがこれほどまでにいうんだから、そこには何か、あるんだろう」、そう思ってもらえるくらいの信頼の基盤、基礎を築く必要はあるかな、と思う。


むやみやたらに暴力的に声を大きくするつもりはないけど、大切なひとに自分が大事にしてるものを大事だと伝えられるくらいの、強いマイノリティではありたいかな。

承認欲求とか、そーゆー話じゃなくてね。