”芸術”を勝手に定義してみた
心の揺れを焼き付ける装置だと思う。芸術って。
たとえ、他者に鑑賞されることがなくとも、表現者自身が「自分の心の揺れが焼き付けることができた」と感じていたら、それは芸術だと思う。わたしはそう思う。
その心の揺れは……
ときに、美しい景色を目にしたときの感激だったり。
ときに、誰かを恋い慕う胸の疼きだったり。
ときに、捨て置けないほどの怒り、その激しさだったり。
はたまた、愛らしいリンゴをおいしそうと思う気持ちだったり。
そのリンゴの赤に吸い寄せられたときの、目が覚めるような気持ちだったり。。。
心の揺れを喚起した、その対象にフォーカスする表現者もいれば、それによって呼び起こされた、自らの心の波紋にフォーカスする表現者もいると思う。
いずれにせよ、そこには、表現者のまなざしと、その心の揺れが焼き付いている……はず。
描かれたリンゴは、キャンバスにロックオンされた赤は、表現者がみていたリンゴで、赤で。
ただのリンゴでも、ただの赤でもなくて。
芸術は、いろんなものに宿りうる。
廃屋の壁の落書きとか。
満月が見える角度に取り付けられた窓とか。
名詞とか、慣用句とか、楽譜とか。
表現者のまなざしや心の揺れが感じられたとき、わたしは、それに「芸術」を感じている。
言い換えれば、それに、表現者という「生き物」を感じているのだと思う。
一時の感情は時とともに冷たくなるけれども。
ひとは死ねば冷たくなるけれども。
言葉やキャンバスや、旋律や、壁面や、建物や…そこに表現者の「体温」が残り続ける。
そのぬくもりを、後年の表現者自身が感じとる。
あるいは、まったく接点のなかった人間が感じとる。
「芸術」って、いいなあ……
そう思うよ。しみじみ(*^-^*)
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