似合っていると言ってくれ

先週末の朝にね、家の前に見慣れない車が停まってて。その車の色に、おっ と思わず目がいった感じで。


赤っぽい色の車なんだけど、車の色としては、わたしはこれまであんま見たことなかった赤、っていうか。

隠し味程度に青が利いてる感じの、見てると元気が湧いてきそうな感じの赤じゃなくて。そういう色の赤い車は、結構見たことあったんだけど。これまでも。

その車は…なんていうかこう、熟れ落ちる寸前の、熟柿の柿みたいな色。

「この色は何色ですか?」って質問を「10人に聞きました!」ってやったら、7人が「赤。」、3人が「オレンジ?」って答えそうな感じの色。


で、へぇ!、こんな色の車もあるんだ、って、家出てたときのぼぉ~っとした心が、なんかちょっと目ぇ覚めた感じで。

いったん、心が動き始めると、なんか、次々いろんなこと思い出しちゃったりとかして。


わたしね、成人式の着物、赤着たの。

その着物をひと目みたとき、「なんて美しい赤なの!!!」って感動して。で、その着物を選んだんだけど。


そんでもって後日、自分がその着物着て写ってる写真、見て。

思ったね。

「こりゃ、ナイなぁ~……(^皿^;)」ってw

好き、と、似合う、は違うんだよね。。。

学んだね。。。


で、その2年後、大学の卒業式のときは、袴にピンクの着物を合わせたの。

そのときの写真見ると……まあ、所詮、顔がわたしだから、素敵☆とかは100%ありえないんだけど(笑)、なんていうかね、「しっくりきてる」感じはした。

少なくとも、成人式写真のような、アチャー(/_< )感はなかったかな…σ(^_^;)


わたし、顔立ちがぽや~~っとしてるから(立ち居振る舞いも…(;´▽`A``)、赤!とか青!とか紫!とか、そういう強い色の服が全然似合わないんだよね……。致命的に似合わない。。。

店員さんとかにも、「お客様には、ピンクとか、やさしい色のほうがいいです」って、ハッキリいわれる。


でも、わたしがほんとうに好きな色って、自分には似合わないような強い色だったりするんだよね…。哀しいことに。


とくに、ものすごく好きなのは、瑠璃色みたいな、濃くて、若干暗くて、深みのある青。大好き。

真夏の炎天下に咲く、サルビアの花びらみたいな強い赤も好き。

それ以外は、3・4が無くて、5に白!って感じ。強い色!さもなくば、白!みたいな…

インテリアとか、身のまわりのものは白基調のシンプルな感じが基本的に好きかな。全体のテイストにもよるけど。


ときどきね、「○○ちゃんらしいね」っていう声かけがされてる場面に遭遇するんだけど。その発言って、わたしにとっては、ものすごく違和感があるんだよね……。

それをいうなら、「○○ちゃん、それ、似合ってるね」じゃないのかな?って。


もちろん、そんなん、わたしの老婆心に過ぎなくて、言われた当人が「うん! よくわかってらっしゃる!! そう、これがわたしらしいの!! これがわたしの自分らしさなの!」って思ってるなら、それが一番いいことなんだけどね。

もしそうだったら、「ややこしーことゆーて、せっかくおふたりが共感しあってる場面に水差しちゃってごめんよ…(´;ω;`) 」って顛末になっちゃうから、普段、そう思ったとしても第三者の立場から何か言うことは一切ないんだけどね。。。外野から何かいっても、基本、こじれるだけだと思うし。


「○○ちゃんらしい」って表現にわたしが違和感をもってるってこと自体、ひとに伝えるのは、この文章が初めて。


こんなこと書いてると、「ややこしーこという、細かいやっちゃな…(-"-;)」って思われそうだけど……。。。

もちろんね、日常的な生活のなかで「これが、あずなちゃんらしいね」っていってもらえたら、それはそれで、ちゃんと素直に受け取るよ。ご発言の文脈にもよるけど、「ああ、ある程度違和感無く受け止めてもらえるところに、おとしどころもってこれたのかな…、それを評価してもらえたのかな」って素直にうれしいし。

自分の行動の結果に「反応」をもらえること自体、ものすごくありがたいことだし。洋服なら鏡や写真で自分でも確認できるけど、社会で生活するなかでは、他人様に鏡になってもらうしかないことも多いしね。


だから、日常生活のなかで、いちいち「○○ちゃんらしい」って表現に、一律にイラッとしてるとか、目くじら立てて生きてるとか、そういうわけじゃないんだけど。。。


ただ、「○○ちゃんらしい」っていう表現を、わりとカジュアルにつかうひとは、なんだろ、たとえば、「猫大好きなのに猫アレルギー(´;ω;`) 」とか、そういう”もどかしさ”みたいなものに直面したご経験があまりない方、これまで「自分がこうありたい」と思う自分を、社会からわりとストレートに受け入れられてきた方、なのかな?とは思う。そのことが、悪いことだとかいってるんじゃない。決して、断じて、悪いことなんかじゃない。だって、「順風満帆」ってそういう意味でしょう?


いつもながらにクドイけど、、、またいうね。これから話すことは、コミュニケーションの下地づくりを目的としたもの。誰かを非難するとか、そういう意志は毛頭無いからね。


わたしだって、何もすべての面でマイノリティってわけじゃないし、別のことに関しては、わたしが逆の立場になってることもあると思う。伴侶との間では、そういう思いも少しずつ伝え合っていけたらな、って。お互いに。

その先にある(あるといいな)、最強のかんふぉたぼー地帯に到達するためにもね(^-^)


で、「○○ちゃんらしい」って表現を耳にしたとき、わたしが感じる違和感。

言ってるひとと言われてるひとの関係にもよると思うんだけど。

いったい、どこまでその「○○ちゃん」のことを理解して、「○○ちゃんらしい」って言ってるんだろう、って。そう思っちゃうんだよね……どうしても。


もちろん、「○○ちゃんの理想や目標を共有して、長い間、○○ちゃんと苦楽を共にしてきて、○○ちゃんがやっと、自分の個性を発揮できる場所や表現方法を見つけた! それを共によろこんでる!!」、そういうシチュエーションでの「○○ちゃんらしい」っていうのは、すごくわかるんだけど。

そうでなければ、「○○ちゃんらしい」なんて、そんなに簡単に言えることじゃないんじゃないかな?っていう思いがある。


ご一見さんができる評価って、せいぜい、それが○○ちゃんに似合ってるかどうか、そのレベルのことなんじゃないのかなって。


もちろん、「似合ってる/似合ってない(周囲に不快な印象を与えてる)」の判断を、周囲がしてくれるっていうのは、ものすごく、ものすごく、ものすごく、(3回言った)大事なことだと思う。ものすごく、大事なことだと思う。(ダメ押しでもっかい言った。)人間は社会をつくって生きてる動物だから。


もしかしたら、わたしにはピンクが似合うのかもしれない。

でも、ではピンクがわたしらしいのか、っていうと、それはちょっと違う気がする。

ピンクは、わたしのなかで、「こうでありたい自分」と「外からの視線のなかで生きる自分」とのせめぎあいのあわいにある、損益分岐点のようなもの(?)でしかない。

それは所詮、たんなるおとしどころでしかないから、状況が変化すれば、それはブラウンにもなればベージュにもなれば紅シャケ色にもなる。わたしにとってのピンクなんて、その程度のものでしかない。


話飛ぶね。

「生きてる」と強く実感するのって、「どうしても、赤を着こなしたい!!!」みたいな思いが、胸に兆したときだって気がする。


たとえば、ものすごい美人がジャージを着てるときもやっぱり綺麗なのは、それは、ジャージ(芋)を自分(美)の側に、ぐいっ ともってこれてるからなんだと思う。着こなす、っていうのは、そういうことなんだろうな、と思う。

逆に、赤い着物の美しさが暴走してしまうのは、わたしの顔に、その美しさを制御(それに拮抗)するだけのパワーが無いからなのだと思う。


自分に似合うものを選んでいくのではなくて、好きなものが似合う自分になりたいと思うこと。生まれもったものは変えられないけど、ある程度、技術で補える部分はある。その「技術」の選択肢は、知識や経験や経済力を大きくしていくことで、増やしていくことができる。


折り合いをつけて、おとしどころをみつける。それ以上の事態を、わざわざ引き起こす理由なんて、どこにもないから。

「どうしても、着たい赤」がないときのわたしは、いつもそんなふうに、ただ生きてる。


あきらめたくないものをあきらめずに済むために、大人になろうと思う、その火種みたいなこと。

それが見つからないときは、ずっと苦しかった。