絵葉書みたいな理想だけど。

”目を奪われる”という表現があるけれど、 ハッ と、その瞬間の関心というかattentionを根こそぎ奪われてしまうような光景って、あるなあ。


絶景といわれるような名勝地でも、そういうこと(感動)は、もちろん、あるのだけど、個人的に琴線に触れるのは、なんというか、もっと”ちいさい秋”系というか、荒削りなうつくしさだったりする。


夢中になって写真を撮っていると、「何、撮ってるの?」とよくいわれる。よく、いわれる。


「あ、キレイ!」、道を歩いていて、ふと声を上げたとき、隣にいるひとから「あーホントー(棒)」でもなく、「はあ?雑草じゃね?」でもなく、「何?どこ? ほんとだ」みたいな反応が返ってきたら、しあわせだろうな。

うつくしいと感じられるものに触れて ふわっ と持ち上がってる気持ちが、急速冷却されないような反応が相手から返ってくる……その積み重ねって、ともに時間を過ごす間柄において、大きな要素なのかもしれない。


なにも、まったく同じ感性でなければいけないというわけではなくて、共感にまで行き着かなくても「何?またなんかヘンなもんに反応してんの?w どれ、何? 何がそんなにおもしろいの~?」みたいに受けてもらえるだけで、心はあったかいままでいられる。というか、むしろ、あったかく加温される。

わたし自身、そのひとが何に感動しているのか、まったくわからないケースとか分野とかってよくあるし、癒し系ならぬ”冷やし系”のリアクション、やっちゃってることあるだろうな……(汗)


自分の”感動”に冷や水を浴びせかけられるような経験を重ねると、どんどん、自分が好きだと感じるもの、素晴らしいと感じられるものを、ひっそりと、ひとりだけで味わう”クセ”がついてしまう気がする。


わたしが「うつくしい」といったときには否定されたのに、権威付けされると”手のひら返し評価”される…そういう経験も密室趣味に拍車をかける気がする。


そういうことって、自己嫌悪や人間関係そのものへの絶望感にもつながっている気がする。大げさと思われるかもしれないけど、積もり積もって。


そんななかで、インターネットは密やかな希望のようなものを灯してみせてはくれるけど……個人的には、価値観が転覆するほどの”成功体験”は、まだ得られていない現状…かな。


道端で”ちいさな秋”を見つけて、隣のひとに「ホラあれ、見て」と声をかけようと、横を見たら、そのひとも心奪われたように同じもの見てた……これが、絵葉書みたいに理想的すぎる、わたしの理想の紅葉風景。