信・不信・ニュートラル

追いつめられて……(他人に?自分に?どっちもか??)

手のひらの雑菌を顕微鏡で拡大して鼻面に突きつけられているような状況に追い込まれて……


 人生において

 幸せとは何ぞや

 (↑ここ、脳内書体は明朝体でよろしく。)


みたいなことを、ガラにもなく、考えてみたりしたのだが…(確か、この話は前にもちょっとした気がす…)

幸せとは、「このひとにならだまされてもいい」と思えるひとに出会うこと……かなあ? と感じたりした。(なんだろうね…この歯切れの悪さは……)


ただ……

信じているのでもなく、信じていないのでもなく、信じるとか信じないとかに思い及ばない、なんとなくやわらかくてあったかい密(honeyではなく疎)をまとった関係。

それぞれの発している好意的なモワモワが重なって、なんとなしの”温”やら”色(光)”やらの密集部分を形成している状態。

ニュートラルだから形成できた、カンフォタボー。


厳密にそれを幸せというかどうかは別として、カンフォタボー基準なら、それが最強だったかもしれない。


顕微鏡図から出発して、そういうものを再構成するとしたら、自分の発する”気”に、(次元的)拡がりをもたせなければならないのかもしれない。


結局、疎でしかなくて、膜も輪郭もないから雲散霧消するもので……そういうものに、永続”感”を付加する。


よく、「最後の晩餐には何を食べたいか」みたいな企画コンテンツに、オトナな回答を寄せているひとがいて感心させられるんだけど……


なんかもう、質問の意図とか誌面のノリとか広告のシバリとかそういうのもろもろなぎ倒して、


 「明日の晩ごはん、なに食べよっか」”感”が欲しいッ!!!!!


と叫んでしまいそうな、今日この頃のわたしは負け犬です。

ナイテナイモンッ…(T^T)