地球最後の読者。
前にね、写真撮るひとの集まりみたいなとこで、「地球最後の人類になったとき、それでも写真を撮るか? それはなぜか?」みたいな話題があって
。
この問いかけ、すごくいいな、ってしみじみ思って。
シンプルだけど根源的な部分が浮き彫りになる問いかけ、っていうか。
対外的に、自分の考えとしてYes/Noを表明しないにしても。
ほんとはNoだけど、立場上Yesと述べざるを得ないにしても。
「撮った写真をみるひとは、誰もいない。そんな状況で、自分は、カメラというものとどう向き合うのだろうか。そんな状況下で、わたしにとって、カメラ・写真というものは、一体どういう存在、どういう位置づけのものでありえるんだろう? 普段、自分は一体何のために写真を撮っているのか?」
……みたいなことに思い及ぶ、その過程で、不意に自分の輪郭を垣間見てしまうような。
そういう、対象の輪郭を浮き彫りにする、光みたいな質問。
ちなみに、この問いかけに対するわたしの答え、撮るか撮らないか、だけど。「たまに撮る」かなあ。
なぜか? 心を動かされるものがあったとき、その”感じ”を、明日の自分がありありと再生できるよう、そのフックをつくりたいから。
ただ、その”保存”方法として、わたしは文字(文章)に頼ることのほうが多いような気がするな、と。
もちろん、とどめておきたいものの性質次第で、写真だからこそ留めておける部分、文章でまったく再現できないわけではないにせよ、写真のほうがよりリアルに再現できることも、多分にあるわけで。
だから、答えは「”たまに”撮る」。
わたし、普段から、誰にみせるでもないものを書いたりしているんだけど、後になってそれを読み返すと、不意に”生き物”に触れた感覚が残ったりするのね。
なんだろ、、、周囲のひとと、生身の人間を感じるようなコミュニケーションができないとき、過去の自分って、いい話し相手になってくれる気がする。
写真や文章に”現在”を焼き付けておかないと、それもできないから。
自分が地球最後の人類だったら……撮る・書く枚数は今より減るかなあ……
撮る枚数は結構減るかなあ。書く枚数は、今とあんまり変わらないような気もするな。
0コメント